クワイエット・プレイス 破られた沈黙

【評価】★★★☆☆

いい続編だった。これぞ第二部。

 

【批評】

DAY1があるのが良い!

やっぱり第一部を見ただけでは判断できない部分(例えば、他の住民はどうなったのか?等)が少し分かったのが嬉しかった。いうて、エメットに再会するっていうイベントの前振りもあったかもですが、まぁそこまで気にするレベルでは無かったかな。

 

そこからの続編も最高。「見たかった続編はこれだ」という感じでした。やっぱり、子供が成長するんですよ。大人が知らない間に。

でも船着場に居た怪しい集団は何だったのでしょうか。個人的には、怪物に崇拝した集団と思っていますが、果たして?

 

しかし、「怪物は泳げない」から島はOK、ってなりますかね?日本とか島国だからそういう島は山ほどありそうですけど。

 

私は更なる続編はないと思ってますが、「これってまだ終わってないよね」って言ってる人も居て、正直わかりません。

 

それはさておき、本第二部をみなさんは映画館で見てください!

 

宮本から君へ

【評価】映画ではないため、星はつけていません。

私は苦手かな。

 

【批評】

彼氏が寝ている隣で妊娠の可能性がある彼女が男にレイプされていました。

アダルトビデオであれば「さすがに彼氏も気付くでしょ」みたいな笑いどころもあったかも知れませんが、これは実際演技として行われています。もちろん、こういった事象を映画化することは悪くはありません。でもそれが、「結婚できて嬉しい!」みたいなスーパー楽しい終わり方でいいんでしょうか。バッドエンドにしろとは言ってなくて、例えば「いろいろ大変だけど、これからも一緒に生きていきます。」みたいなオチでも良いじゃん。真利子監督は気に入っていたが、さすがにこの行為を認めたのは苦手です。

「映画でレイプしたら駄目」なんてことは言ってません。「レイプ最高!」みたいな登場人物も大丈夫です。ただし、今回みたいに被害者である彼女が事象を真剣に受け取っているなら、映画もそれを受け取って欲しいと思います。「映画で辛かったけど、最後はスーパー嬉しいでいいじゃん」とは私はならなかったなぁ。

 

さらに、ラストに宮本がボコボコにしたレイプ犯を自転車に乗せて、彼女の家まで連れてくる。おかしい。なんでレイプ犯を犯行現場に連れてくるの?彼女の心の傷は?となってしまう。

んー、苦手だなぁ。

"隠れビッチ"やってました。

【評価】映画ではないため、星はつけていません。

三木監督脚本、許さない!!

 

【批評】

この映画から1年前に『勝手にふるえてろ』という松岡茉優主演映画がありました。最高でした。「私のこと好きって嘘なの?」という松岡に対して「好き=何でも受け入れる、じゃないよね」みたいなセリフで主人公が諭されるのは良かったです。

がしかし、本作品「"隠れビッチ"やってました。」でもまったく同じ話がでます。同じ話をやるのはまぁ良いんですけど、普通、セリフは変えませんか?「三沢さんは私のことが好きなんでしょ。だから私のことを全て受け入れる義務があるの。」って『勝手にふるえてろ』とまったく同じなんですけど。諭され方も同じだし。これは三木監督および脚本のセンスが乏しすぎる。

 

一方で森山未來も嫌い。「言ったのにやらない」みたいなミスを3回ぐらいやっている。そもそもお前にも罪があるからな。「離れてみよう」みたいに別れ話を続けるけど、罪は森山未來の方が大きいからな。これも許されない。

 

村上虹郎はバイっぽいんだけど、そんなカットが出てこないんだよね。ラストに村上虹郎に男が馴れ馴れしく寄り添ってるけど、最後に荒々しくバイ要素入れてくるのも作品の方向性と違うから。

 

と、基本的に監督の方針に納得がいかない日でした。笑

 

彼女がその名を知らない鳥たち

【評価】★★★☆☆

陣治は「いい人」ではない。

 

【批評】

 

◾️導入の巧みさ

 

まず冒頭の10分で引き込まれた。

 

上手い映画というのは、主要な登場人物のキャラクター(性格、置かれている状況、表面上の関係性)を画で簡潔に説明するものだ。

本作では、はじめに十和子(蒼井優)のクレーマーっぷりを描くことで、十和子が満たされない毎日を過ごしていることを表している。また、一瞬見切れた男の影を追うシーンだけで、過去の男に未練があることも説明している。

陣治(阿部サダヲ)が過剰に十和子が大好きなことも、その陣治の不潔っぷりで嫌な感じも、電話と食事シーンだけで手際良く表現されている。

映画の冒頭が入りやすいことは、映画に感情移入できるためにとても重要なファクターであり、そこをクリアしているだけでも、本作は優秀である。

 

 

◾️なぜか汚い陣治

 

また、陣治をあえて極端に汚く映しているところも面白い。彼は顔面が常に黒ずんでいるんのだ。いくら土建現場の作業員といえども顔ぐらい洗うし、あんなに汚れているのは不自然である。つまり、意図的に汚くしているのだ。

 

これについては、「十和子の黒い過去を陣治が引き受けているがために、陣治は薄汚れている」ということが後から分かる。終わってから振り返ってみると、観客が陣治に抱いていた違和感はここから来ていたのかと、関心させられる。

 

 

◾️食事シーンから見える繋がり

 

作中での十和子と陣治の食事シーンは、観客の記憶に残る印象的なシーンであるが、本作では食事シーンによって二人の繋がり具合を表現している。

マンション生活初期の回想シーンでは幸せの象徴であるすきやきを食べる。十和子が満たされていないときは、うどんのような味気の薄い食事。男ができてすれ違い始めると、パンは潰れるし、外食になってしまう。

 

最も面白かったのは、陣治が殺人犯であることが分かった直後に肉を焼いて食べていることだ。(しかもそれなりに美味しそうに食べるのだ。)ここでは、これまでとは違う、二人のヘビーな関係性の始まりを暗示していると思われる。

 

 

◾️タッキリマカン

 

十和子と水島(松坂桃李)のホテルシーンで、「タクラマカン(タッキリマカン)砂漠」が「永遠の死」を意味する、という話が紹介される。

鑑賞中は、十和子と水島の関係が、所詮は不倫であり、虚しい終末を迎えることを暗示しているのかなと思っていたが、後からは、むしろ十和子と陣治の関係に未来がないことを表しているのだと感じた。陣治と住むあのアパート部屋こそが、未来のない、「永遠の死」の居場所なのかもしれない。

 

 

◾️陣治は「いい人」ではない

 

さて、終映後のお客さんの会話を聞いていると「結局、陣治がすごいいい人ってことだよね」と話していたり、いくつかのレビューサイトでも「陣治の無償の愛に感動した」とあったりするのだが、私はその評価には賛同できない。

 

陣治は全然いい人ではない。十和子よりもよっぽどメンヘラで、DV気質だ。

 

ストーキングが過度なことは勿論のこと、車で一方通行を逆走しても「まぁいっか」で済ませてしまうところに、人の道を外しかねない異常性が垣間見える。(まあ、これらは「陣治が黒崎を殺した」と観客に思わせるミスリードでもあるのだが。)

 

さらに、出会いの回想シーンのときには、陣治は十和子にメダカを買ってくる。あの場面を「純粋だけど不器用な陣治」みたいに笑ってほっこり見ることはできない。メダカを虫かごに入れているんだよ。あんなメダカ、すぐに死ぬわけで。あれは暗に「十和子を虫かごに入れて飼い殺したい」っていう陣治の欲望が表れているシーンで、凄いホラーだと思う。

 

 

◾️なぜ陣治は自殺したのか?

 

また、観客は終映後にある疑問も持ったであろう。それは、なぜそこまで十和子への所有欲をもつ陣治が、最後には自殺を選択したのか。この理由について作中では十分に説明されていない。

 

表向きは、「十和子の罪をかぶるため」だが、だとすればやはりなぜ自殺しなければいけないのかわからない。

黒崎の殺人も、水島の傷害も、まだ明るみに出るとは限らない。むしろ、陣治があんな目立つ自殺をすれば、それらの事件が表面化する危険性は高まるであろう。そして仮に事件がバレたとしたら、陣治が罪を被って生きたまま刑務所に入ればいいじゃないか。

 

つまり、陣治の自殺は辻褄が合わない行動であり、フィクション性が強い。そしてそういう描写には、必ず作り手の意図がある。

 

そこで、私は以下のように考えている。

 

 

長澤まさみが夫の錦戸亮のDVに苦しむドラマ『ラスト・フレンズ』でもあったが、メンヘラは最後には自殺する。それは、自殺すると「その人の永遠になれるから」だ。

 

目の前で人が「君のことを愛してる」って言って自殺したら、どんなに嫌いでも永遠の存在になってしまう。好きかどうかは別にして忘れることができなくなる。ましてや今回は、「十和子が子供を産んだらそれは俺や」と発言している。これは恐怖だよ。

例えば、将来、十和子が新しい男と幸せになったとしても、陣治の存在からは逃げられないのだ。ある意味、究極の束縛である。そしてこんな考えを持つ陣治を「いい人」と判断することは私にはできない。

 

 

 

勿論、陣治以外の男がクソなのも間違いない。

 

つまり、「彼女がその名を知らない鳥たち」は、歪んだ恋愛感を持った鳥たち(=男たち)の話だったのだ。

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール

【評価】★★☆☆☆

水原希子のセクシーシーンのためだけの映画。だが、それでいい。

 

【批評】

そもそも水原希子が嫌いな人は絶対に受け入れられない映画なので、その時点で一定数の観客を排除しているなあとは思う。

後は、観客それぞれの恋愛観や経験と照らして、受け入れられるか否かが分かれるだろう。

 

というのも、本作は「天海あかり(水原希子)が良い女と思えるかどうか」で好き嫌いが完全に分かれる。

例えば、「いろんな男とすぐにセックスする女なんてチャラくて何がいいのか」と思う層には、天海あかりはただのメンヘラビッチにしか映らず、全然いい女に見えないだろう。そうなった瞬間、本作は成立しない。

私なんかは、鑑賞前は「狂わせるガールは思わせぶりな態度をとりつつセックスはさせてくれない女」と思っていたのだが、実際は作中では定期的にセックスできているから、コーロキもあかりが彼女であることに拘らなくても楽しくて良いんじゃないかと思ってしまい、コーロキの独占欲に共感できなかった。

 

しかし、コーロキが一晩中連続してLINEを送るという、DVっぽい怖いシーンでは、「あー、気持ちは分かる」となったので、LINEと電話が止められないコーロキを見て恥ずかしくなった。自分の人間の小ささを改めて客観視させられて、いい意味で辛いシーンであった。

 

このように、本作は、「観客の過去の恋愛経験と照らし合わせて共感できるか否か」の分かれ道がたくさん用意されているので、正解ルートを辿れなかった人には苦しいかもしれない。

 

 

 

さて、映画全体から漂うギョーカイ的なオシャレな雰囲気は、『モテキ』から続く大根仁監督の得意な演出であり、納得の出来だった。あんなに華やかな生活があるなら、仕事もさぞ楽しいのであろうと、一般人として羨ましくなった。

 

言葉遣いで気になったのは、若い女性向けのアパレルの社長(天海祐希)は、例えおばさんであっても「ゲロうま」なんて絶対に言わないし、一方でリリー・フランキー演じる倖田シュウのキャラクターも現実感がない。

勿論、映画的なキャラ作りとして過剰に演出しているのだろうが、全体的にうっすらとスベっているので、観ていてひいてしまった。

 

 

また、タイトルに歌手名があるからには本作で最もキーとなる「音楽との融合」だが、残念ながら成立していたとは思えない。

例えば、コーロキとあかりがデートを重ねて場面が何度も変わるシーンでは、シーン毎に音楽がぶつ切りにされて、居心地が悪い。あの編集は音楽に愛がない。「ヒット曲のサビだけサンプリングする」のは、演出が安っぽくなるので避けるべきだ。むしろ、シーンは変えても、音楽は1曲だけで良かったのではないだろうか。

 

 

また、脚本自体も完成度が低い。

例えば、コーロキがライターと一緒に猫を探すシーン。そもそも、「猫を一緒に探す」みたいなシーンは既視感があるし、その後の「猫に顔を引っ掻かれる」のは、藤子・F・不二雄の漫画で使われているレベルで、表現として古すぎる。コーロキの追い込まれている感を表現するにしても、他に手段はあっただろう。

 

また、編集長(松尾スズキ)が黒幕であるのはバレバレなので、やたらと引っ張るのは良くなかった。

 

さらに、ラストに三人の男が集合するシーンもついていけなかった。編集長が二人を集める理由が弱いし、思いのほか編集長が雑魚キャラだったので、クライマックスとしても成立していない。話のオチを強引に持って来た感じだ。

 

 

とまあ、否定的な感想ばかりだが、全体的には細かいことは気にせず楽しめる作品であった。そして本作最大の推しポイントは「水原希子のセクシーシーンがたくさんある」ことだ。それだけでこの映画には十分な価値があると私は思う。(ダメか。)

 

ダンケルク

【評価】★★★★☆

これがノーラン流実話映画なのか!

 

【批評】

戦争映画というよりは、脱出サスペンス映画である。

 

あのクリストファー・ノーランが戦争映画を撮るわけだから、「正義とは何か」「戦争とは何か」みたいな小難しい話をこねくり回してくるものだと予想していたら、実際はその真逆の構成だった。つまり、頭で考えず身体で感じる映画だった。

 

 

ダンケルクの戦いにおけるダイナモ作戦は、いわば逃げ戦であり、激しい攻防があるものではない。つまり、映画化には到底向かない題材である。そこで、ノーランは本作を「脱出サスペンス映画」にすることで、その問題を解決している。

 

要は、観客に脱出劇のハラハラを追体験させることを目的とし、「臨場感をいかに演出するか」に振り切っているのだ。

セリフを極力排除する、主人公役にはオーディションで見つけた新人俳優を使う、CGを使わない、IMAX撮影にこだわるなど、そのこだわりは多岐に渡る。

 

実際、107分という、ノーラン映画としては短い上映時間も、観客がハラハラドキドキに耐えられる時間としては妥当なところであろう。

 

 

3つのストーリーの時間軸をずらす、というより時間の圧縮率を変えるという演出は、これもまた臨場感を出すための工夫のひとつであり、ノーランらしい上手いテクニックだと思う。(お手軽版『インセプション』といった感じか。)

 

 

本作にはドラマ部分が少なく、その点が批判されているようだ。しかし、『ハクソー・リッジ』のような一人の英雄を描く作品なら必然なのだが、「とある兵士」の恐怖を観客に追体験させる目的においては、ドラマ部分は観客に一歩引いた客観視のチャンスを与えてしまうため、不必要といえるだろう。

 つまり、ドラマ部分の省略は、本構成からして必然の選択なのだ。

 

 

 

本作をサスペンス映画として完成させるもう一つの演出は、敵兵であるドイツ兵の描写が一切ないことである。

例えば、映画冒頭、主人公は街中からの突然の銃撃に逃げ惑うのだが、銃撃がどこから来ているのかはまったく分からない。つまり、どこに逃げればいいのかも分からない。これだけで、「見えざる敵」から逃げるというサスペンス映画のできあがりであり、観客は映画の中に一気に引き込まれるのだ。

 

さらに、見えざる敵への恐怖感を煽る「音の演出」も素晴らしい。上空を舞う敵機のエンジン音からの爆撃音、船の中で銃撃されるときの銃撃音が、明らかに通常よりも激しく演出されており、観客に絶望感を抱かさせている。

終盤のチクタク音も、明確なタイムリミットがない作戦ではあるが、無意識のうちにタイムリミットがあるかのようなハラハラを演出する、古典的ながらスタイリッシュな技術であった。

 

 

 

なお、多数の民間の船が同時にダンケルクに登場するなど、ラストシーンは少し出来過ぎなフィクションの色合いが強い。確かに、そこには若干のプロパガンダ的意味合いを含めているようだ。

一方で、英国兵が同盟であるフランス兵を後回しにして救出していた点など、外すべきでない不都合な真実も描かれている、そこのバランス感覚はさすがである。

 

 

そして、ラストシーンでは、活躍したスピットファイアパイロットが絶望的な状況に落ちて終わるというのも憎い。つまり、「この作戦が完全な成功ではない」ということを観客に感じさせて、もやもやさせているのだ。

 

インセプション』ラストで、現実か夢かを判定するコマの動きを、最後まで描き切らなかったように。

三度目の殺人

【評価】★★★★☆

相変わらず画でみせるのが上手い

 

【批評】

 私の中で、是枝裕和監督は「優等生監督」といった感じ。

映画賞参戦はプロモーション的な意味合いもあるが、それでも年間ペースで淡々といい映画を作る才能は凄い。どの作品も明確なハズレはなく、心に響く作品ばかり。年2ペースで評価ブレブレの作品を排出する三池崇史監督とは違います(褒め言葉)。

 

 

そして本作もとにかく「上手い」作品だった。

 

例えば、本作のメインである、面会室での三隅と重盛の会話シーン。三隅が供述するときは、ガラスの円状の凹凸部分を上手く顔と重ねさせて、三隅の供述に漂う怪しさを表現している。後半には真横からのショットを多用し、二人を隔てるものが何も無いかのように、つまり序盤は真実に興味がなかった重盛が、後半は三隅に直接ぶつかっていく様子が描かれる。

 

そしてラストシーンでは、ガラス越しに反射した重盛の顔が三隅にゆっくりと重なる。今まで対峙していた三隅と重盛が同じ方を向き、重なる。つまり、二人の理解が重なる瞬間である。

背景もない、目新しさもない面会室シーンだけで、ここまで個性を発揮できるのは凄い。

 

 

さて、本作を理解するには、「そもそも『三度目の殺人』とは何か?」という疑問に答えなければならない。

実はこの解釈は人によって分かれるところであり、しかもその解釈次第で本作全体の理解が異なるやっかいな仕組みになっている。

 

僭越ながら私の解釈では、「三度目の殺人」とは、「この事件に関係するすべての人が、『三隅』を殺した」と考えている。

 これは三隅の死刑という単純な話ではなく、「三隅という人間性」を皆が殺したのである。

 

ラストシーンで、重盛は三隅に「あなたはただの器」と呟く。これは、結局誰も真実には興味がなく、自分の願望や都合を三隅を通して正当化し、世間に押し付けていることを意味している。逆に言えば、三隅は自己の内面を写す鏡でもあるのだ。

 

本作では、たびたび十字架が登場する。勿論、十字架はキリスト教の象徴であり、イエス・キリスト磔刑を表す。

キリスト教では、イエス・キリストが磔にされた理由として、「人民の罪を被った」とする考えが存在する。つまり、本作では、三隅は磔にされたキリストであり、人々の身勝手な願望を背負って、死刑判決を受けるのである。

 

 

本作では、結局真実が明らかにされない。

そもそも、人の発言が真実かどうかなんて誰にも分からない。だから、真実にどう向き合おうとするべきか、を本作は問うている。

 

重盛は、序盤は真実に興味がない人間だった。タクシーの運転手の証言をとるときは、「この財布でしょ。この財布から臭ったんでしょ。」と誘導している。しかし、重盛の娘が嘘泣きをするシーンでは、重盛は我が娘でさえ信じられないことに動揺している。真実に向き合おうとしない普段の姿勢が、家族さえも遠ざけていることに気づくのだ。

終盤は、事件を通して真実に向き合おうとするのだが、前述の通り、実はただ自分の都合を押し付けていたことを気づかされる。そして観客は、重盛を通して同じ体験をすることになるのだ。これこそ、是枝監督の巧妙なテクニックである。

 

 

その他、上手いシーンはたくさんある。

例えば、咲江(広瀬すず)が母親に「余計なことって何?」と聞くシーンでは、顔の半分が暗闇で隠れている。これは咲江が心に闇を抱えていることをストレートに表現している。

また、三隅が右手で左頬を拭うシーンは、のちに咲江と重盛が同様の行動をするシーンと繋がる。これはやはり、咲江や重盛が、三隅に自らの都合を重ねていることを意味しているのではないだろうか。

 

 

挙げるとキリがないのだが、このように、ひとつひとつのシーンがとても丁寧に撮影されており、是枝監督の優等生っぷりを堪能できる作品となっている。

 

ぜひ映画館で観て、自身の真実を見つけてほしい。