打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

【評価】★★★★☆

上映終了後のザワザワがすべてを語る。

 

【批評】

男の子と女の子のラブストーリーもの、ぐらいのスタンスで見に行ったら、あまりにも違い過ぎてビックリした。完全に油断していた。

この映画は、文学だ。

 

そして、本作は人によって好き嫌いが分かれるであろう。正直、嫌いな人の気持ちもよく分かるので、その辺りも解説したい。

 

 

1.そもそも本作はどういう話なのか?

 

誰の人生にも分かれ道が存在する。それは必ずしも大きな決断を伴うものではなく、「プールのターンで失敗する」ような些細なことかもしれない。そんな分かれ道で選択されなかったもう一つの行き先を探る。これが本作だ。

 

しかし、実際はそんなワクワクするような話ではない。

なんせ主人公の典道はずっとボーッとしているのだ。質問されても常にどっちつかずな返事をするし、そもそも聞いているのか怪しいぐらい。そしてその結果、与えられたチャンスを何度も逃して、なずなを失う。典道の頼りなさにイライラした人もいるのではないだろうか。

 

実は、本作は少年と少女のラブストーリーではなく、典道の「もしもの」成長に主軸を置いた話である。頼りない典道が、自らの殻を破るまでを描いている。

 

 普通の映画のストーリーなら、主人公は数々の困難を努力で乗り越えることで成長するのだが、本作では典道は都合よくタイムループアイテムを使って困難を乗り越えるので、観客には典道が楽をしているように見える。

 

しかし、そこはもはやそれでいいのだ。なぜなら、そもそも最初のタイムループ以降は、非現実だからだ。

実際、最初は右回りだった発電風車が、最初のタイムループ以降は常に左回りになっている。(そしてそれはラストに典道が殻を破るときに戻る。)これは、現実世界と非現実世界の区別を示している。

 

非現実世界の中で、典道は何度も失敗し、その度に後悔する。そして最後には「もしも」の無意味さに気付くのだ。

 

なずなと灯台で花火を見る直前、「結局、打ち上げ花火は丸いと思う?平べったいと思う?」となずなに聞かれた典道は、「丸いに決まってるだろ!」と強めに言い返す。これは、「なずなと一緒にいれるこの世界が現実であってくれ!」と願っているのだ。

しかし実際は、平べったい以上に非現実的な花火を見ることになる。この世界が幻想であることを、強烈かつ美しく突きつけられるのだ。

 

 

2.「なずな」とはどういう存在なのか?

 

なずなは典道の彼女でもなんでもない。

 

繰り返すが、本作はラブストーリーではなく、典道の成長ストーリーだ。とすれば、なずなは典道の成長を導くべく現れた存在ではないだろうか。

実際、なずなは典道より身長が高いし、色気をまとっている。明らかに同世代よりも大人な存在である。

 

本作中、典道は無条件になずなにモテモテである。決断力のないフワフワした主人公がなぜなずなにモテるのかよく分からなかった人もいるだろう。

 

答えは、「そもそも典道の成長ストーリーなんだから、典道がモテるのは当たり前」である。

 

なずなが典道の成長を導く超越した存在であるならば、典道のもしもストーリーでは当然なずなは典道が好きなのだ。

例えば、祐介には祐介のもしもストーリーがどこかにあり、そちらでは祐介がなずなにモテモテなはずである。

 

直接のセリフはないが、酔っ払った花火師が「打ち上げ花火は横から見れば平べったい」と言ったという場面がある。これは花火師がデタラメを言ったのではない。おそらく彼の中のどこかのもしもストーリーで、花火は平べったかったのだ。

 

 

3.光る細かい演出

 

 そもそも、原作の岩井俊二は、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、「現実か幻想か分からない」演出が得意だ。そう思うと、本作のストーリーはまさに岩井俊二の原点だ。その岩井俊二の温度感を、本作は見事に引き継いでいる。

 

初めに上手いと思った演出は、プールサイドのなずなにとまったトンボの複眼に写るいくつにも分かれた景色だ。これはまさに「この先には何通りもの世界が存在する」ことを表している。
その後祐介がプールサイドに入ってくる瞬間には、少し時間がワープする演出がされていて、非現実感を観客に刷り込んでいる。

 

50m水泳対決の後、なずなは祐介か典道の顔にホースで水をかける。ここで、観客は水をかけられる側の視点になる。水をかけられた方は、一瞬視界と音が失われる。つまり、観客にとってその前後が不連続になる。「さっきまでの世界」と「今後の世界」が繋がっていない可能性を、観客は無意識に感じ取ることになる。

 

途中、電車に乗る場面では、急にスケッチ調の絵柄に変化する。これは、これからより非現実的な世界に突入することを示している。また、電車は発車後すぐにトンネルに入る。これはもう『千と千尋の神隠し』でおなじみであるが、トンネルは非現実の入り口である。

 

現実世界のときは、学校の螺旋階段は左回りが登りでカメラが右に動く。しかし非現実世界ではカメラは左に動く。さらに、なずなと灯台に登るときは、螺旋階段は右回りでカメラが左に動く。このあたりの区別もうまい緻密な表現だ。

 

電車から眺めるなずなの家の車は、途中で変わっている。最初は赤い庶民的な車だったが、親からの逃避に成功したときは黒い高級めの車に変わっている。 

この理由は正直よくわからないが、なずなの「田舎(=現実)を抜け出して東京(=幻想)に行きたい」という脱出願望の表れかもしれない。

 

このように、本作は細部に計算された演出があり、考察しがいのある映画である。

 

 

4.ラストシーン、典道はどこに?

 

ラストシーン、教室で点呼されてもそこに典道はいない。この解釈もまた議論を呼ぶところであろう。

 

私はここで典道を登場させなかった演出はいいと思う。やはり典道は教室にいてはいけない。なぜなら典道は成長したからだ。人より先に大人になり教室からいなくなったなずなのように、典道もまた教室から脱出したのだ。

 

 

 

終盤、割れたガラスの破片に写るいくつもの「もしも」の場面。さて、あれは典道の願望なのか、なずなの願望なのか。

それとも、あり得る未来なのか。

 

見る人によって解釈がまったく異なる、面白い映画である。