三度目の殺人

【評価】★★★★☆

相変わらず画でみせるのが上手い

 

【批評】

 私の中で、是枝裕和監督は「優等生監督」といった感じ。

映画賞参戦はプロモーション的な意味合いもあるが、それでも年間ペースで淡々といい映画を作る才能は凄い。どの作品も明確なハズレはなく、心に響く作品ばかり。年2ペースで評価ブレブレの作品を排出する三池崇史監督とは違います(褒め言葉)。

 

 

そして本作もとにかく「上手い」作品だった。

 

例えば、本作のメインである、面会室での三隅と重盛の会話シーン。三隅が供述するときは、ガラスの円状の凹凸部分を上手く顔と重ねさせて、三隅の供述に漂う怪しさを表現している。後半には真横からのショットを多用し、二人を隔てるものが何も無いかのように、つまり序盤は真実に興味がなかった重盛が、後半は三隅に直接ぶつかっていく様子が描かれる。

 

そしてラストシーンでは、ガラス越しに反射した重盛の顔が三隅にゆっくりと重なる。今まで対峙していた三隅と重盛が同じ方を向き、重なる。つまり、二人の理解が重なる瞬間である。

背景もない、目新しさもない面会室シーンだけで、ここまで個性を発揮できるのは凄い。

 

 

さて、本作を理解するには、「そもそも『三度目の殺人』とは何か?」という疑問に答えなければならない。

実はこの解釈は人によって分かれるところであり、しかもその解釈次第で本作全体の理解が異なるやっかいな仕組みになっている。

 

僭越ながら私の解釈では、「三度目の殺人」とは、「この事件に関係するすべての人が、『三隅』を殺した」と考えている。

 これは三隅の死刑という単純な話ではなく、「三隅という人間性」を皆が殺したのである。

 

ラストシーンで、重盛は三隅に「あなたはただの器」と呟く。これは、結局誰も真実には興味がなく、自分の願望や都合を三隅を通して正当化し、世間に押し付けていることを意味している。逆に言えば、三隅は自己の内面を写す鏡でもあるのだ。

 

本作では、たびたび十字架が登場する。勿論、十字架はキリスト教の象徴であり、イエス・キリスト磔刑を表す。

キリスト教では、イエス・キリストが磔にされた理由として、「人民の罪を被った」とする考えが存在する。つまり、本作では、三隅は磔にされたキリストであり、人々の身勝手な願望を背負って、死刑判決を受けるのである。

 

 

本作では、結局真実が明らかにされない。

そもそも、人の発言が真実かどうかなんて誰にも分からない。だから、真実にどう向き合おうとするべきか、を本作は問うている。

 

重盛は、序盤は真実に興味がない人間だった。タクシーの運転手の証言をとるときは、「この財布でしょ。この財布から臭ったんでしょ。」と誘導している。しかし、重盛の娘が嘘泣きをするシーンでは、重盛は我が娘でさえ信じられないことに動揺している。真実に向き合おうとしない普段の姿勢が、家族さえも遠ざけていることに気づくのだ。

終盤は、事件を通して真実に向き合おうとするのだが、前述の通り、実はただ自分の都合を押し付けていたことを気づかされる。そして観客は、重盛を通して同じ体験をすることになるのだ。これこそ、是枝監督の巧妙なテクニックである。

 

 

その他、上手いシーンはたくさんある。

例えば、咲江(広瀬すず)が母親に「余計なことって何?」と聞くシーンでは、顔の半分が暗闇で隠れている。これは咲江が心に闇を抱えていることをストレートに表現している。

また、三隅が右手で左頬を拭うシーンは、のちに咲江と重盛が同様の行動をするシーンと繋がる。これはやはり、咲江や重盛が、三隅に自らの都合を重ねていることを意味しているのではないだろうか。

 

 

挙げるとキリがないのだが、このように、ひとつひとつのシーンがとても丁寧に撮影されており、是枝監督の優等生っぷりを堪能できる作品となっている。

 

ぜひ映画館で観て、自身の真実を見つけてほしい。