哭声/コクソン

【評価】★★★★☆

ジャンル不明のエンタメ映画

 

【批評】

予告編を見ても、事前の紹介記事を読んでも、サスペンスなのかホラーなのかオカルトなのな、はたまた暴力グロ映画なのか、よく分からない。分かっているのは、韓国の映画祭で大絶賛、國村隼が大活躍、という触れ込みのみ。怖いもの見たさで見てみたら、やっぱりジャンルは不明だった。ただ、圧倒的なエンタメであることは間違いない。

 

「ホラーとコメディは紙一重」とよくいうが、まさにそれを実現している映画だった。怖いシーンなんだけど、映画館からは笑い声が起こっていたし、実際かなり笑える。

呻きながら骨が飛び出て大量出血で死ぬ、というショッキングなシーンのあとに、骨つき肉を炭火で焼いているシーン。ジョークにしてはあまりにもブラックだが、さっきまでの緊張シーンとの落差に思わず笑ってしまう。

本作の上映時間は156分と、なかなかの長編である。もし、怖いシーンやグロいシーンだけで埋め尽くされていれば、観客は疲れてしまい、ストーリーどころではなくなるだろう。しかし、本作前半は徐々に恐怖が侵食していく様をゆっくりと描いてはいるが、そういった笑えるコメディが散りばめられており、見事な緊張と緩和の連続で、156分の長編でも飽きずに見ることができる。

 

多くの人は、大音量、びっくり演出、グロ映像で観客の不快感を煽るホラーには飽きていることであろう。本作はそんな人にはもってこいの新感覚恐怖映画である。

 

 

さて、ナ・ホンジン監督はなぜ怪しいよそ者役に日本人を起用したのだろうか?

それは、(どこかのインタビューでキリストと重ねていたが、)ムラ社会に紛れ込んだ「同じように見えて異様なもの」に対して人間が本能的に感じる疑念を描きたかったのだろう。

しかし、それなら変な韓国人のおじさんでも良かったはずである。例えば、『怒り』では、渡辺謙は、小さな漁村に紛れ込んだ正体不明の男、松山ケンイチに疑念を抱いていた。

 

日本人起用の理由は、監督本人は否定しているが、やはり「韓国人が普段から抱えている日本人への疑念」に鋭く迫ったのだろう。いくら知識人がリベラルに構えていても、やはり他のアジア人、とくに日本人への疑念が心の奥に眠っているのであろう。だからこそ、多くの韓国人に、皮肉にも、受けているのではないか。

 

 

先ほどあげた『怒り』では、結末で真犯人が明確に提示される。その結果、罪のない人を疑っていた観客に対して、映画は「ね、人を信じることって難しいでしょ?」と投げかける。ある意味、教訓的なメッセージが強い映画であった。

 

一方本作は、真犯人、というか本当の原因が何なのかはそこまでハッキリとは明示されない。結局、観客は「あの人を疑った私は正解なのか、間違いなのか、よくわからないんだけど?」となる。

この辺り、人によっては「よく分からないあやふやなオチ」ということで、しっくりこないかもしれないが、これは明らかに監督が狙いとしているところである。

つまり、リアルな生活では、他人を100%信じるなんてことはありえないし、むしろ、100%信じていい人なんていないのだ。他人はあるときは自分の味方であるし、あるときは自分の敵になる。だからこそ、根拠のない疑念によって自分の行動を決め、はたまた誰かを傷つけることは、はたから見ればとても滑稽であり狂気でもあるのだ。

 

 

本作で印象的なシーンは、主人公が2度ほど選択を迫られる場面である。

1度目は、娘の痛ましい叫びを聞いて祈祷を止めさせるか悩むシーン。2度目は、怪しい女の忠告を聞いて止まるか娘を助けに家に戻るかを決断させられるラストシーン。

 

いずれの場面も、結局は「あいつの言うことは信じられるか?」という選択を突きつけられるのだ。この2つの場面では、観客も同時に「どっちが正解なんだ!?」と悩むことができて、感情移入爆発の興奮シーンである。

 

そして、この種の選択は、多分我々の日常でも迫られている。我々はその都度、一定の事実を参考にしつつも、感情と折り合いをつけて、自分の中でベストと思う選択をしている。果たして、これまでのその選択が正しかったのか、観客は考えさせられることになる。

 

 

映画のラスト、助祭が見た國村隼の容姿は悪魔そのものであった。さて、その容姿は現実なのか。それとも助祭が信じこんでしまっている幻覚なのか。

答えは、観客の心の中に芽生えた「疑念」が知っている。