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何者

【評価】★★★☆☆

必然的なメタ構造

 

【批評】

未だかつて、これほど読み進めるのが辛い小説はなかった。

 

就活時代のこそばゆい感じ、はたから見れば相当にイタい行動、嫉妬心。思い出したくもないあの頃を突きつけられる苦しさがそこにはあった。

そしてラストには、凄い勢いで指を突きつけられる。「お前だよお前。そうやって、時に背伸びし、時に他人を批評し、時に無邪気ぶってみせる、そんな就活生を、他人を見て笑ってんだろ。お前が一番醜いんだよ。」と。

そう、この小説の怖いところは、主人公の二宮拓人の視点で描かれたストーリーのラストに、拓人の醜い部分が指摘されるショックを超えて、読者自身の醜さを突きつけられるところにある。「拓人なんでまだ可愛いもんだよ。それよりもお前。お前だよ。」と。

 

主人公に感情移入させておいて最後に落としてくる小説は数あれど、それを超えて読者自身を直接的に刺激し、ここまで鋭くリアリティを突きつける小説はなかったであろう。小説『何者』は、そんなメタ構造の完成系のような作品だ。

 

そして、映画はそのメタ構造をうまく解釈仕直し、表現している。

 

映画は、その性質上、小説よりも主人公の感情を描くのが難しい。小説をそのまま映像化し、ひたすらに登場人物の独白で進行させるワケにはいかないからだ。(そういう映画もたくさんあるが。)言い換えれば、原作小説で読者が体験した衝撃を、映画でそのまま表現することは不可能だ。

 

そんなことは、監督の三浦大輔も十分に理解している。そこで彼が使った手法が、自身のフィールドでもある『演劇』である。

映画終盤、拓人の本性が暴かれるシーンで、これまでの出来事はすべて舞台演劇だったかのような劇中劇シーンになる。この演出はまさに、原作のメタ構造を映画なりの再解釈で表現している。

 

舞台の上という場所は、まさに観客に値踏みされ、批評される立ち位置である。監督自身、厳しい批評に晒されてきた経験もあるだろう。つまり、「これまでのシーンがすべて舞台の上の出来事」とする意図は、「これまでのシーンを見てきて、お前は他人事のように批評的目線で見てたんでしょ。拓人がツイートしてるようなことを感じてたんでしょ。」と、観客に突きつけるのだ。

 さらには、自身の分析ツイートを舞台観客に晒して拍手喝さいをもらう拓人を見て痛々しく感じさせることで、それまで批評的目線で斜に構えていた観客自身の痛々しさを、自覚させる構造になっている。

これは攻撃力の高い映画的演出と言っていいだろう。

 

劇中劇のメタ構造を入れる映画は多くあり、そのほとんどが松本人志の『R100』のように、失敗していると思っているが、本作に関しては必然の演出であり、成功している。

 

 

余談ではあるが、最後に本映画に残念な点があるとすれば、本作のメイン場面はなんといっても理香と拓人の口論(というより一方的な理香の説教シーン)であるため、原作からそこを大幅カットしたのは頂けないと思った。

 

 

朝井リョウの小説は、無責任に若者に「夢を追いかけるのは素敵だ」と言わないところがいい。現実を、静かに、そして鋭く突きつけるからこそ、「現実」に生きるしかない私たちへの最大のエールになっているのではないだろうか。