少女
【評価】★★★☆☆
都合いいと捉えるか、綺麗に収めたと捉えるか
【批評】
湊かなえ作品はほぼ全て映像化されている。
日本アカデミー賞最優秀作品賞の『告白』に始まり、『白雪姫殺人事件』などの映画化、『夜行観覧車』『Nのために』『花の鎖』などのドラマ化、その他映像作品など、本を出せば映像化がセットであり、一時期の東野圭吾、伊坂幸太郎ラインに完全に乗っている。
そして、湊かなえ作品は、わずかに波はあるものの、一定したブランド通りのクオリティを維持している。こうなると、原作の良し悪しというより、「湊かなえ」という素材をどう調理するかという勝負になっている。無論、中島哲也の『告白』がひとつの壁となっているのは事実であり、比べられることは拒否できない。さて、本作はどうであろうか。
結論としては、とてもよくまとまっている。
湊かなえ特有のいくつもの細かい人物相関を、控えめな説明描写で表現しきっている。主役となる二人の少女も、モデル出身の二人が難しい役どころをこなしているという印象だ。本田翼の演技はやや過剰な気もしたが、それもまぁそこまで気になるレベルではない。
さて、本作のテーマは「ヨルの綱渡り」である。つまり、10代の若者(ここはやはり「少女」というほうが正しいだろうが)の狭い視野における絶望感が、実は勘違いであり、成長とともに光が差し、開かれた世界に気付くというものだ。
ただし、(以降は原作でも問題があるところだと思われるのだが、)そうなるとストーリーにおいて気になる点がある。
それは、さすがに展開が都合が良すぎるのではないかという点だ。
「あのときのあの人がこの人で、、」というのは、物語のストーリーとしては計算されていて面白いのだが、ここまで繋がりすぎていると、都合が良すぎる印象がある。
人物が繋がりすぎると、世界が一気に狭くなる。『少女』の世界は、全ての出来事の因果関係がわずかな登場人物の中だけで完結しており、もはや半径5メートル以内で行われている話でしかない。無論、必然的な理由があってそうであれば良いのだが、必ずしもそうである必要がないことも繋げてしまうので、やり過ぎた感がある。これは逆に言えば、お話としての現実味を放棄していると言っていい。
本作のテーマが上記に述べたような「10代の視野の狭さ」であり、「本当は世界は開いている」ことなのであれば、物語自体の狭い世界観はメッセージと真逆のオチになっていて、気持ちが悪い。
一方で、この意見には反論もあろう。
それはつまり、ラストでの由紀と敦子の疾走シーンに射す夕陽こそ、新たな世界の始まりであり、閉じたヨルからの脱出を意味する、というものだ。さらに、ヨルからの脱出に失敗した紫織は死を選択するしかなくなる。なるほど、二人の少女と一人の少女の対比を描いていると考えれば筋が通っていなくもない。
しかし、自分の小説をパクって、新人賞を受賞した教師が、報復を受けて自殺したのを、たまたま図書館で会った青年が目撃し、教師は自殺の瞬間に都合よく原稿を持っており、バラバラになった原稿用紙が都合が良く青年にとって回収可能であり、そこに都合良くラストシーンが入っている、というのはあまりにも作り過ぎではないだろうか。
また、他の気になる点としては、由紀が書いた「ヨルの綱渡り」のラストに「A子に捧げる」と書かれていることだ。「小説が親友に捧げたものであること」は感動的ではあるが、敦子のことを「A子」って呼んでいたのはLINE上でのイジメと同じ呼称であり、親友として使ってはいけないと思う。
ただ、全体的なダークなイメージや、派手過ぎない演出は監督の腕が立っている。
大好きシーンは、それまで片足を引きずっていた敦子が普通に歩き出すところだ。観客自身が少女に騙されることを体験できる本シーンでは、少女が醸し出す危うくも妖しい物語性が説得力をもって表現されている。
また、主役の二人は勿論のこと、脇を固める児嶋一哉や稲垣吾郎、佐藤玲なども安定しており、ご都合主義のストーリー展開でも映画を観られるものにしている。
つまり、現実感を期待するというよりは、全体的な雰囲気を味わうタイプの映画と思えば、十分に楽しめる。
確かに、湊かなえのご都合主義は今に始まったことではないのだから。