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ひそひそ星

【評価】★★★★☆
帰ってきた園子温

【批評】
昨年は商業主義だろうが原作ものだろうが話が来たものから順番に映画を作って「質より量」を実行した園子温。そのスタンスはもはや三池崇史そのもので、「もっとじっくり撮ってくれよ」と思った人も多いのではないだろうか。
ところが一転、今度は自ら製作会社を立ち上げ、「本当に撮りたい映画を撮る」という思いのもと完成したのが本作「ひそひそ星」である。

私は園子温作品の中でもとりわけ『ヒミズ』が好きなのだが、世間的にはあまり評判はよくない。その理由の最たるものが、「被災地を使用した撮影」である。当時、『ヒミズ』はすでに台本が完成していたのだが、東日本大震災を受けて急遽修正。映画の冒頭は、生々しい被災地の瓦礫のなかで二階堂ふみが語り出すところから始まる。

園子温は計算というよりは感性で映画を撮る人だと思っているので、東日本大震災の大惨事を感性の映画監督がスルーできないのは当然であろう。ただし、その瓦礫の下で何人もの人が亡くなっているわけで、そんなおっさんの感性の材料にされて被災者がどう感じるかはわからない。批判が起こるのもまた、当然である。

しかし、園子温は我々の心配をよそに、その後も震災・原発に関連した映像を撮り続ける。『希望の国』では、被災地の映像は勿論のこと、ある意味幼い原発放射線被曝の知識で映画を固め、ショッキングな描写を行っている。

そして本作『ひそひそ星』でも、被災地、被災者を使った撮影を行っている。ただ、これまでの映画と異なる点は、震災から時間が経ったためか、園子温と震災の間に適当な距離が生まれ、かなり落ち着いた目線で震災を語っていることだ。これまでの直接的な描写は避け、詩的にメッセージを語っているため、見る人によって解釈が異なる、非常に文学的な作品になっている。そう、「園子温」が帰ってきたのだ。

構想自体は25年前に完成していたため、「滅びゆく人類」を描くことは決まっていたのであろう。ただ、それを「人類へのレクイエム」ととるか、それとも「人類の希望の提示」ととるかで、印象が違う。

震災からときが経ち、今や人々の記憶は着実に薄れつつある。(是非はどうであれ)原発は順次再稼働を進めているし、被災地報道も格段に減った。この悲しくも忘却する能力をもつ人類に対し、園子温は「終わりゆく種族」とも捉えているし、「記憶という希望をもった種族」とも捉えている。

タイトルのとおり、この映画はとても静かだ。登場人物は皆、ひそひそとささやくように話す。その結果、シンクに垂れる水滴の音、空き缶を踏む音、枝を地面に擦る音、そんな何気ない音がとても印象的に聞こえる。そう、我々の記憶は、そんな何気ない生活の中の何気ない音に囲まれているのだ。しかし、福島県の一部地域では未だその音も聞こえない、無の空間となったままであり、園子温はそこに「音」を鳴らすことで希望を提示している。

ラストシーン、人類が「30デシベル以上の音を鳴らすと死んでしまう」なんて、被曝放射線量の限界値に怯えながら暮らす人々そのものである。届けられた荷物の中身を見た人類は涙する。それは荷物にまつわる思い出や記憶から、ひそひそとして暮らす必要のなかった、自由に生きることができた日々を思い出したのかもしれない。

これは、園子温の警告か。希望か。ぜひ自分で見て感じてほしい。