64-ロクヨン-前編

【評価】★★☆☆☆
前後編商法の覚悟が見えない。

【批評】
とりあえず前編はつまらないと思う。

映画を前後編に分けることには、合理的な面もある。
長い原作を映画化するためには2時間では尺が足りない。3時間を超える映画は観客の集中力がもたないし、映画館としては回転が悪く迷惑な話。結果、前後編に分けることで、ストーリーはじっくり再現できるし、映画館にも迷惑がかからない。
観客のなかには上記の利点から歓迎する人もいるかもしれないが、一方で嫌がる人も多くいるのが事実。理由は明白で、それは「3,600円も払わされるから」である。

ならば、前後編に分けることを決めた製作陣には、ひとつの覚悟が必要である。それはつまり、「3,600円の価値がある映画を作る」ことだ。
ジュラシックパーク』の2倍面白い映画、『スターウォーズ エピソード7』の2倍面白い映画、『桐島部活やめるってよ』の2倍面白い映画を作らないといけない。

ところが、残念ながらこの映画にはその覚悟が見えない。

ひとつに、前編に強引に結末を作ろうとして失敗している点にある。

前編のストーリーは、①記者クラブと県警広報部との対立、②県警広報部とその他の部署や上層部との対立、③誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題の3つあるが、それぞれにおいてダメな点がぎっしりある。


はじめに、①の記者クラブと県警広報部の対立だが、これはもはや「能無しvs能無し」である。
記者クラブが事件関係者の実名公表を求めるのは最もではあるが、そんなことで本部長に抗議しに行く暇があったらさっさと取材なり根回しなりして自力で調べればいいし、実際そうしている。権力の暴走を止めるためにメディアが団結することが大事な場面があるにはあるが、使いどころを間違っている。
また、佐藤浩一が「原則、実名公表とする」という画期的な提案をしたときには、「『原則』って何ですかー?」と幼稚園児みたいな質問を自信満々にする。状況によっては実名公表ができないときもあることは報道に関わっている人には当然の話なのだが、そんなことも分からない無能集団が揚げ足をとってわーわーと喚いてるだけでイライラしてくる。

一方で、佐藤浩一の行動も納得できない。
彼は最終的に交通事故加害者の実名を公表するわけだが、それは加害者が警察関係者の娘という理由で守られていることに対して憤りを感じたからで、それだけを見れば美談に見える。
しかし、当初実名公表を拒否した理由である「加害者の女性が妊娠しているから」という事実は動かないわけで、最終的にそれは軽視されている。無論、妊娠について言及はするのだが、「警察の隠蔽なんて許さん!」という正義の前では消えて無くなっている。つまり、自分が実名公表したことで加害者女性がマスコミに袋叩きにされて、ストレスの結果に流産したとしても知ったこっちゃないわけだ。
もちろん、どっちの結論をとったとしても問題はあるわけだが、そのラストに持っていくためには、主人公が二つの正義の間で揺れ動く様子を描かないといけないのだが、この映画はそれを描ききれていない。榮倉奈々の「彼ら(メディア)をもっと信じてください」という言葉に心を動かされるわけだが、そもそも榮倉奈々がなぜそう考えるようになったのかは謎であり、その根拠なきアドバイスに動かされちゃう佐藤浩一もあわれである。最後には、自分がクビになるかならないかみたいな話になってて、「そこじゃないだろ!」と突っ込んでしまう。

そんな何の筋もない主人公は、最後には何の論理性もない説得を涙ながらに語って、なぜかそれに心動かされて記者クラブは納得する。
こんなシーンを見せられた観客には何のカタルシスも生まれない。


次に、②の広報部と上層部との対立であるが、そもそも「権力や世間体重視の上層部との対立」なんて『相棒』等でやり尽くされているわけで、今更見せられても二番煎じが否めない。
しかも、主人公の佐藤浩一は、特に戦略があるわけでもなく、ただただ熱くなって本部長の部屋に殴り込みに行く。
無論、そんなものは軽くあしらわれるわけだが、見ている方は「そうだ!正義を貫け!」というよりは、「それはさすがに失礼だろ。馬鹿じゃないのか」となってしまう。
「不器用な男」といえば聞こえがいいが、あれでは単なる困ったおじさんでしかない。


最後は、③の誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題である。誘拐事件の真相は後編になるとして、隠蔽問題には前編で一定の結末を見せている。というか、強引に見せようとして失敗している。
罪の意識から14年間も引きこもっていた窪田正孝は、佐藤浩一の「君は悪くない」という一言の手紙だけで、なぜか「救われた!!」となって号泣してカーテンを開ける。さすがに14年間引きこもっていた人間が、突然のたった一言だけで救われるのはあまりにも脈絡がなさすぎる。そもそも、佐藤浩一と窪田正孝が以前にどんな関係性だったのかまったく描かれておらず、佐藤浩一の一言の影響力が観客には実感できないため、とても不自然である。
というか、吉岡秀隆演じる幸田さんはいい人だから絶対に「君は悪くない」って何度も言ってると思うし。

さらに、窪田正孝の顔が綺麗すぎる。メイクで廃人感を出そうとしているのだが、明らかなつけ髭とかつら、かつ肌はとても綺麗で、芸人がコントするときの即興メイクぐらいの完成度である。14年間引きこもっていた人間は、当然不潔で吹き出物だってあるはずだし、あんな綺麗な顔で演技されても現実感がない。はっきり言って演出側はやる気がない。


以上のように、本映画は脚本にも演出にも穴だらけだ。
ただ、そうなってしまった理由は、おそらく、前編になんとか結末を作ろうとして、強引なストーリー展開を行ったことによるのではないだろうか。
観客が前編だけで離れてしまうことへの恐怖もあるとは思うが、どうせ前後編に分けるのであれば、全体としていい作品になるようにしてディテールを詰めて欲しかった。


ただ、唯一いいと思うのは、小田和正の主題歌と佐藤浩一の渋さのおかげで「いい映画を見てる感」が溢れていることだ。