哭声/コクソン

【評価】★★★★☆

ジャンル不明のエンタメ映画

 

【批評】

予告編を見ても、事前の紹介記事を読んでも、サスペンスなのかホラーなのかオカルトなのか、はたまた暴力グロ映画なのか、よく分からない。分かっているのは、韓国の映画祭で大絶賛、國村隼が大活躍、という触れ込みのみ。怖いもの見たさで見てみたら、やっぱりジャンルは不明だった。ただ、圧倒的なエンタメであることは間違いない。

 

「ホラーとコメディは紙一重」とよくいうが、まさにそれを実現している映画だった。怖いシーンなんだけど、映画館からは笑い声が起こっていたし、実際かなり笑える。

呻きながら骨が飛び出て大量出血で死ぬ、というショッキングなシーンのあとに、骨つき肉を炭火で焼いているシーン。ジョークにしてはあまりにもブラックだが、さっきまでの緊張シーンとの落差に思わず笑ってしまう。

本作の上映時間は156分と、なかなかの長編である。もし、怖いシーンやグロいシーンだけで埋め尽くされていれば、観客は疲れてしまい、ストーリーどころではなくなるだろう。しかし、本作前半は徐々に恐怖が侵食していく様をゆっくりと描いてはいるが、そういった笑えるコメディが散りばめられており、見事な緊張と緩和の連続で、156分の長編でも飽きずに見ることができる。

 

多くの人は、大音量、びっくり演出、グロ映像で観客の不快感を煽るホラーには飽きていることであろう。本作はそんな人にはもってこいの新感覚恐怖映画である。

 

 

さて、ナ・ホンジン監督はなぜ怪しいよそ者役に日本人を起用したのだろうか?

それは、(どこかのインタビューでキリストと重ねていたが、)ムラ社会に紛れ込んだ「同じように見えて異様なもの」に対して人間が本能的に感じる疑念を描きたかったのだろう。

しかし、それなら変な韓国人のおじさんでも良かったはずである。例えば、『怒り』では、渡辺謙は、小さな漁村に紛れ込んだ正体不明の男、松山ケンイチに疑念を抱いていた。

 

日本人起用の理由は、監督本人は否定しているが、やはり「韓国人が普段から抱えている日本人への疑念」に鋭く迫ったのだろう。いくら知識人がリベラルに構えていても、やはり他のアジア人、とくに日本人への疑念が心の奥に眠っているのであろう。だからこそ、多くの韓国人に、皮肉にも、受けているのではないか。

 

 

先ほどあげた『怒り』では、結末で真犯人が明確に提示される。その結果、罪のない人を疑っていた観客に対して、映画は「ね、人を信じることって難しいでしょ?」と投げかける。ある意味、教訓的なメッセージが強い映画であった。

 

一方本作は、真犯人、というか本当の原因が何なのかはそこまでハッキリとは明示されない。結局、観客は「あの人を疑った私は正解なのか、間違いなのか、よくわからないんだけど?」となる。

この辺り、人によっては「よく分からないあやふやなオチ」ということで、しっくりこないかもしれないが、これは明らかに監督が狙いとしているところである。

つまり、リアルな生活では、他人を100%信じるなんてことはありえないし、むしろ、100%信じていい人なんていないのだ。他人はあるときは自分の味方であるし、あるときは自分の敵になる。だからこそ、根拠のない疑念によって自分の行動を決め、はたまた誰かを傷つけることは、はたから見ればとても滑稽であり狂気でもあるのだ。

 

 

本作で印象的なシーンは、主人公が2度ほど選択を迫られる場面である。

1度目は、娘の痛ましい叫びを聞いて祈祷を止めさせるか悩むシーン。2度目は、怪しい女の忠告を聞いて止まるか娘を助けに家に戻るかを決断させられるラストシーン。

 

いずれの場面も、結局は「あいつの言うことは信じられるか?」という選択を突きつけられるのだ。この2つの場面では、観客も同時に「どっちが正解なんだ!?」と悩むことができて、感情移入爆発の興奮シーンである。

 

そして、この種の選択は、多分我々の日常でも迫られている。我々はその都度、一定の事実を参考にしつつも、感情と折り合いをつけて、自分の中でベストと思う選択をしている。果たして、これまでのその選択が正しかったのか、観客は考えさせられることになる。

 

 

映画のラスト、助祭が見た國村隼の容姿は悪魔そのものであった。さて、その容姿は現実なのか。それとも助祭が信じこんでしまっている幻覚なのか。

答えは、観客の心の中に芽生えた「疑念」が知っている。

湯を沸かすほどの熱い愛

【評価】★★★★☆

死を覚悟した者は強い。

 

【批評】

映画には思考実験的な意味合いがある。

 

映画は、特に邦画は、「現実的にはあり得ない」という理由で批判されがちである。

しかし、落ち着いて考えれば、普通は魔法なんて使えないし、宇宙戦争なんて起こらない。映画の中の出来事は非現実的であることが当たり前だ。

しかしなぜか、ヒューマンドラマに限っては、人はスクリーンの中の出来事が自分の生活の延長かのように捉えて、「現実にはこんな奴いないよ」という理由で批判しがちである。その批判は実は少し間違っていて(ここで「少し」とする理由は後述)、スクリーンの中は非現実的であることが当たり前なのだ。非現実を映すからこそ映画であり、現実が見たいならドキュメンタリーを見ればいいし、むしろ散歩をしていればいいだろう。

 

じゃあ映画は単純なファンタジーでいいのかというとそうではない。映画は、その中で実に非現実的な物語やキャラクターを描くことで、逆説的に「多くの人に刺さるリアリティ」を突きつけるのだ。その意味では、映画はあまりにも「現実的」なのだ。

 

付け加えれば、「こんなの非現実的だ」と批判されて共感を謝絶されるような映画は、それはそれで失敗しているので、そこを庇う訳ではない。

 

 

さて、本映画の主人公、お母ちゃんこと双葉は、実に非現実的な人間である。

多くの人は、彼女の熱すぎる暴走に共感できないことであろう。

 

例えば、イジメを受けて学校に行くのを嫌がる娘の安澄に対して、かなり強引に学校に行かせようとする。おそらく、この対処法は現実的には最悪だ。場合によっては自殺を誘発するだろう。絶対にしてはいけない。

 

映画では、安澄は「教室で下着姿になって抗議する」という無茶な行動をする。結果的に隠された制服は帰ってくるものの、実際あんなことをすれば笑われるし、その後日も笑いのネタにされること間違いない。イジメは絶対に解決しない。それどころかヒートアップするだろう。

 

母親の教育も、イジメ被害の解決法も、明白に間違っている、つまりこのシーンはとても「非現実的」だ。

 

そしてこれが非現実的であることは監督も織り込み済みのはずである。ともすれば、「こんなことはあり得ない」として観客を失いかねないリスキーなシーンである。ではなぜ、監督はこのシーンを作ったのか。それは、『湯を沸かすほどの熱い愛』を表現するために他ならない。

 

暴力的なほど強い双葉から安澄への愛。お母ちゃんからの試練に耐えれば良いことがあると信じる安澄から双葉への愛。そしてお互いの共通点を見つけることで愛が形になる。

イジメシーンはこれらを表現するうえではなくてはならない。そして、後半への効果的な伏線となっているところが、実に巧妙にできている。

 

 

世の中の映画に、いわゆる「難病もの」が多い理由は、単に容易に感動シーンを演出できるからだけではなく、死を覚悟した人間がとる行動にこそ、作り手が思う人間の本質を描くことができるからだ。

 

現在公開されている『聖の青春』は、実在し、若くして他界した天才棋士村山聖を描いた作品である。彼の生涯が魅力的である理由は、単純に天才であるだけでなく、死を前にした彼の将棋への想いが多くの人を魅了するからだ。彼にとって将棋での負けはリアルにイコール「死」である。そんな魂の生き様は、何かに挑戦する人、何かと闘う全ての人にとって、心揺さぶられるものに違いない。

 

そして本作も、フィクションであるものの、死を覚悟した双葉の行動は、多くの人の心に突き刺さるであろう。

 

例えば、旅行中に出会った青年の拓海は、何の目的地もなくぶらぶらと放浪していたが、双葉は彼に目的地を与え、熱く抱擁する。物語上、唐突とも思えるキャラクターの拓海は、生きる目的を見失った私たちを表している。そして、そんな私たちに対して、「なんでもいいから目標を立てて、そこに突き進めばいいんだよ」と優しく語りかける。双葉の行動だからこそ、観客の心に響くのだろう。

 

旅行終盤、突然のビンタから始まる衝撃の展開に私たちは目が離せなくなる。この展開もとてもテクニカルである。

そして、双葉のあまりにも深く熱い愛情に観客の身体がしびれる。振り返るといくつもの伏線が張られており、その優しい回収には関心すると同時に感動させられる。

 

 

また、映画終盤には、最大の感動シーンがやってくる。

 

「死にゆく病人への、病院の窓から見えるせめてもの贈り物」パターンは映画でもドラマでもアニメでも漫画でも使い古されているが、本映画のそのシーンは、今まで見たどんなシーンよりも感動的だった。

上手いと思ったのは、ちょっと笑えるシーンでもあることだ。夜に人間ピラミッドなんてあまりにもバカバカしい。しかしその笑いが、一気に涙に変わっていく不思議な体験をした。まさか今更このパターンで泣かされるとは思っていなかった。

 

ラストシーンも特徴的だ。銭湯で火葬するなんてやっぱり非現実的であるが、映画全編で描かれた双葉の愛を強烈に表現し、映画を締めくくる、効果的なシーンだったと思う。

 

タイトルバックからのエンドロールで、あなたの心に残るものこそ、監督が「非現実的」なストーリーであなたに与えた「リアリティ」である。

何者

【評価】★★★☆☆

必然的なメタ構造

 

【批評】

未だかつて、これほど読み進めるのが辛い小説はなかった。

 

就活時代のこそばゆい感じ、はたから見れば相当にイタい行動、嫉妬心。思い出したくもないあの頃を突きつけられる苦しさがそこにはあった。

そしてラストには、凄い勢いで指を突きつけられる。「お前だよお前。そうやって、時に背伸びし、時に他人を批評し、時に無邪気ぶってみせる、そんな就活生を、他人を見て笑ってんだろ。お前が一番醜いんだよ。」と。

そう、この小説の怖いところは、主人公の二宮拓人の視点で描かれたストーリーのラストに、拓人の醜い部分が指摘されるショックを超えて、読者自身の醜さを突きつけられるところにある。「拓人なんでまだ可愛いもんだよ。それよりもお前。お前だよ。」と。

 

主人公に感情移入させておいて最後に落としてくる小説は数あれど、それを超えて読者自身を直接的に刺激し、ここまで鋭くリアリティを突きつける小説はなかったであろう。小説『何者』は、そんなメタ構造の完成系のような作品だ。

 

そして、映画はそのメタ構造をうまく解釈仕直し、表現している。

 

映画は、その性質上、小説よりも主人公の感情を描くのが難しい。小説をそのまま映像化し、ひたすらに登場人物の独白で進行させるワケにはいかないからだ。(そういう映画もたくさんあるが。)言い換えれば、原作小説で読者が体験した衝撃を、映画でそのまま表現することは不可能だ。

 

そんなことは、監督の三浦大輔も十分に理解している。そこで彼が使った手法が、自身のフィールドでもある『演劇』である。

映画終盤、拓人の本性が暴かれるシーンで、これまでの出来事はすべて舞台演劇だったかのような劇中劇シーンになる。この演出はまさに、原作のメタ構造を映画なりの再解釈で表現している。

 

舞台の上という場所は、まさに観客に値踏みされ、批評される立ち位置である。監督自身、厳しい批評に晒されてきた経験もあるだろう。つまり、「これまでのシーンがすべて舞台の上の出来事」とする意図は、「これまでのシーンを見てきて、お前は他人事のように批評的目線で見てたんでしょ。拓人がツイートしてるようなことを感じてたんでしょ。」と、観客に突きつけるのだ。

 さらには、自身の分析ツイートを舞台観客に晒して拍手喝さいをもらう拓人を見て痛々しく感じさせることで、それまで批評的目線で斜に構えていた観客自身の痛々しさを、自覚させる構造になっている。

これは攻撃力の高い映画的演出と言っていいだろう。

 

劇中劇のメタ構造を入れる映画は多くあり、そのほとんどが松本人志の『R100』のように、失敗していると思っているが、本作に関しては必然の演出であり、成功している。

 

 

余談ではあるが、最後に本映画に残念な点があるとすれば、本作のメイン場面はなんといっても理香と拓人の口論(というより一方的な理香の説教シーン)であるため、原作からそこを大幅カットしたのは頂けないと思った。

 

 

朝井リョウの小説は、無責任に若者に「夢を追いかけるのは素敵だ」と言わないところがいい。現実を、静かに、そして鋭く突きつけるからこそ、「現実」に生きるしかない私たちへの最大のエールになっているのではないだろうか。

少女

【評価】★★★☆☆

都合いいと捉えるか、綺麗に収めたと捉えるか

 

【批評】

湊かなえ作品はほぼ全て映像化されている。

日本アカデミー賞最優秀作品賞の『告白』に始まり、『白雪姫殺人事件』などの映画化、『夜行観覧車』『Nのために』『花の鎖』などのドラマ化、その他映像作品など、本を出せば映像化がセットであり、一時期の東野圭吾伊坂幸太郎ラインに完全に乗っている。

そして、湊かなえ作品は、わずかに波はあるものの、一定したブランド通りのクオリティを維持している。こうなると、原作の良し悪しというより、「湊かなえ」という素材をどう調理するかという勝負になっている。無論、中島哲也の『告白』がひとつの壁となっているのは事実であり、比べられることは拒否できない。さて、本作はどうであろうか。

 

結論としては、とてもよくまとまっている。

湊かなえ特有のいくつもの細かい人物相関を、控えめな説明描写で表現しきっている。主役となる二人の少女も、モデル出身の二人が難しい役どころをこなしているという印象だ。本田翼の演技はやや過剰な気もしたが、それもまぁそこまで気になるレベルではない。

 

さて、本作のテーマは「ヨルの綱渡り」である。つまり、10代の若者(ここはやはり「少女」というほうが正しいだろうが)の狭い視野における絶望感が、実は勘違いであり、成長とともに光が差し、開かれた世界に気付くというものだ。

 

ただし、(以降は原作でも問題があるところだと思われるのだが、)そうなるとストーリーにおいて気になる点がある。

 

それは、さすがに展開が都合が良すぎるのではないかという点だ。

「あのときのあの人がこの人で、、」というのは、物語のストーリーとしては計算されていて面白いのだが、ここまで繋がりすぎていると、都合が良すぎる印象がある。

 

人物が繋がりすぎると、世界が一気に狭くなる。『少女』の世界は、全ての出来事の因果関係がわずかな登場人物の中だけで完結しており、もはや半径5メートル以内で行われている話でしかない。無論、必然的な理由があってそうであれば良いのだが、必ずしもそうである必要がないことも繋げてしまうので、やり過ぎた感がある。これは逆に言えば、お話としての現実味を放棄していると言っていい。

 

本作のテーマが上記に述べたような「10代の視野の狭さ」であり、「本当は世界は開いている」ことなのであれば、物語自体の狭い世界観はメッセージと真逆のオチになっていて、気持ちが悪い。

 

一方で、この意見には反論もあろう。

それはつまり、ラストでの由紀と敦子の疾走シーンに射す夕陽こそ、新たな世界の始まりであり、閉じたヨルからの脱出を意味する、というものだ。さらに、ヨルからの脱出に失敗した紫織は死を選択するしかなくなる。なるほど、二人の少女と一人の少女の対比を描いていると考えれば筋が通っていなくもない。

 

しかし、自分の小説をパクって、新人賞を受賞した教師が、報復を受けて自殺したのを、たまたま図書館で会った青年が目撃し、教師は自殺の瞬間に都合よく原稿を持っており、バラバラになった原稿用紙が都合が良く青年にとって回収可能であり、そこに都合良くラストシーンが入っている、というのはあまりにも作り過ぎではないだろうか。

 

また、他の気になる点としては、由紀が書いた「ヨルの綱渡り」のラストに「A子に捧げる」と書かれていることだ。「小説が親友に捧げたものであること」は感動的ではあるが、敦子のことを「A子」って呼んでいたのはLINE上でのイジメと同じ呼称であり、親友として使ってはいけないと思う。

 

ただ、全体的なダークなイメージや、派手過ぎない演出は監督の腕が立っている。

大好きシーンは、それまで片足を引きずっていた敦子が普通に歩き出すところだ。観客自身が少女に騙されることを体験できる本シーンでは、少女が醸し出す危うくも妖しい物語性が説得力をもって表現されている。

 

また、主役の二人は勿論のこと、脇を固める児嶋一哉稲垣吾郎佐藤玲なども安定しており、ご都合主義のストーリー展開でも映画を観られるものにしている。

 

つまり、現実感を期待するというよりは、全体的な雰囲気を味わうタイプの映画と思えば、十分に楽しめる。

 

確かに、湊かなえのご都合主義は今に始まったことではないのだから。

君の名は。

【評価】★★★★☆

美しい絵と音楽で錯覚しよう!

 

【批評】

新海誠作品がついに世間に認められた(?)本作。本年の『シン・ゴジラ』に次ぐ社会現象となりつつある。

 

そもそも新海誠はこんなに売れるはずではない。新海誠作品といえば、セカイ系の代名詞とも言える『ほしのこえ』に始まり、幼い恋愛観をベースとした主人公の厨二的語りをだらだらと聞かされる、まさにサブカルオタク妄想映画のはずだった。

 

それでも、ファンの間で高い人気を得ているのは、ひとえに圧倒的な景色描写の美しさと音楽(とりわけJpop)の使い方の上手さにある。もともと、新海誠作品は、絵の綺麗さ10点、音楽の使い方10点、ストーリー2点の映画だと私は思っている。

 

過去作の中で最も人気の高い『秒速5センチメートル』なんて、落ち着いて考えたらたいしたストーリーではない。第一部はただただ電車に乗って女の子に会いに行くだけの話だし、第二部は思わせぶりな態度をとりつつ結局「前の女の子が忘れられないんだよ」と言うだけで、第三部は社会人になっても初恋の人が忘れられず会社を辞めるコミュ障の話。私は映画館で「何も起こらなくてつまらないなぁ、、」なんて思っていたら、突然の『One more time, One more chance』に心震え、美しい歌に合わせて流れる美しい景色描写に感動し、最終的には「いい映画を見たなぁ!」と満足して映画館を出たのを記憶している。そして、これこそが新海誠映画なのだ。

 

 次作『星を追う子ども』は強いジブリ意識で空振りした感はあったが、その後の『言の葉の庭』では、再び「景色描写+鬱語り+音楽」の方程式が復活していた。

 

そして今回の『君の名は。』は、鬱語りこそマイルド化したものの、方程式にほぼほぼ従っている。確かにストーリーには一捻りあったが、どこかで見たことあるような設定ではあるし、高校生が変電所を爆破するという無茶な展開、友達が無線にやたら詳しいといったご都合主義の展開は否めない。つまり、ストーリーはやはりそこまで評価されるものではない。それでも、「美しい景色描写+RADWIMPSの音楽」は最高で、心地がいい。冒頭のタイトルシーン、ラストのエンドロールまでの流れ、この2点の絵と音楽のコンビネーションは、他のアニメ映画ではありえない完成度である。そしてやはり、これだけでもう、いい映画を見ているような(良い意味の)錯覚をしてしまうのだ。

 

宮崎駿引退後の今、もはやジブリ作品だからといって売れるとも言い切れない時代になってきた。大衆ウケできる、漫画やアニメ原作でないアニメーション映画は細田守ぐらいに限られてきた感さえある。そこで、東宝が目をつけたのが新海誠であり、今回の大ヒットはまさに作戦が成功した形である。

 

また、ストーリーはそこまで、とは言ったものの、かつてに比べればとても見やすいものになっていると思う。例えば、冒頭から、入れ替わっていることにお互いに気付くところまでのテンポのよさは快適だった。観客はそもそも予告編等でだいたいの設定は知っているわけで、設定紹介をだらだらとやられても退屈するわけだが、効果的な場面やセリフと、テンポの良い展開からの『前前前世』までのノンストップ感は、まったく飽きる隙間を与えてくれなかった。

 

「絵10点、音楽10点、話2点」の新海誠作品が、「絵10点、音楽10点、話6点」になったという感じ。

 

美しい絵と音楽をフルに堪能できるのはやはり映画館だと思う。ぜひ錯覚をしに映画館まで足を運んでほしい。

 

TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ

【評価】★★★★☆

クドカン節が活きる設定!マザファッカー!

 

【批評】

宮藤官九郎映画には、クドカン脚本で監督は別である作品と、クドカンが監督も脚本も行っている作品があり、それらは別として考えなければいけない。

 

クドカン脚本で最も有名な映画は『舞妓Haaaan!!!』であるが、あれは脚本のみの参加だ。圧倒的なスピード感と独自の感性で名作となったわけだが、あれは監督の水田伸生によるところが大きい。

というのも、あれだけのとんでもストーリーを見事にまとめた監督の力量は凄い。クドカンの発想のオリジナリティは誰もが認めるところではあるが、それを2時間の映画枠に収め、観客の観れるものにしたのは監督の腕だ。

 

一方、宮藤官九郎の監督としての能力はこれまではあまり評価できるものではなかった。特に、前作の『中学生円山』では、思いついたギャグを順番に映像化したといった感じで話が進み、収拾がつかないまま、最後には強引にいい話に持って行こうとして大失敗していた。しかもそのギャグも30点ぐらいのギャグで、映画館ではくすくす笑いさえ起こっていなかったのを覚えている。このとき、やっぱり監督がいないと厳しいんだなぁと実感した。

 

そんな前作があるため、宮藤官九郎監督の今回もあまり期待せずに見に行ったのだが、それがいい意味で裏切られた。

 

映画館では笑いが起こっていたし、最後まで退屈することなく見ることができた。そう、本作は成功している。

 

本作成功の理由は、クドカンのギャグが活きる2つの設定にあると思う。

 

ひとつは、地獄という舞台設定だ。

クドカンのギャグには基本的にフリがない。脈略のない怒涛のギャグは、ときに観客を困惑させることがある。つまり、観客が普段生活している延長にはない単語が突然に投げ付けられるので、意外な展開で笑うというより不条理で笑えなくなることがある。しかし、本作は舞台を地獄とすることで、そもそも観客の普段の生活とは関係のない舞台であるがゆえに、不条理なギャグを見せられても理解できないのが当たり前で、ひとつひとつのワードや演出にむしろ素直に笑えてくる。実際、映画館では何度も笑いが起こっていた。クドカンのギャグは(例えば「団地」のような)既存の現実に入れ込むよりも、今回のように架空の舞台のほうが活きると思われる。

 

クドカンギャグが活きるもうひとつの設定は、バンド設定だ。

そもそも、クドカン自信がバンドをやっていたこともあり、音楽とサブカルチャーへの知識が深いし、その業界の人間たちとの繋がりも広い。地獄とバンド、サブカルの相性も抜群で、みうらじゅん片桐仁が自然とフィルムに入ってしまう。地獄のコードHなんて発想も面白すぎる。クドカンならではの単語である。

園子温の『TOKYO TRIBE』がラップミュージカル映画なら、本作は宮藤官九郎のロックミュージカル映画であり、こまめに入る音楽が映画にスピード感を与えており、気付いたら2時間経っていたという印象だった。

 

また、地獄だけのシーンでひたすら2時間やられると苦しいところもあるが、定期的に現世のシーンが入ることで、息抜きができるし、飽きることもなく見られる。

 

やや残念だったのは、ロックバトルのルールが意味不明で、ラスト直前はやっぱり収拾がつかなくなっているところだ。しかし、絵に勢いがあるので、あまり細かいことを気にしても仕方がない気がするし、ルールがなくてもごり押しできていると思う。

 

とにかく、地獄シーンのディテールへのこだわりは凄く、視覚的にも面白いシーンばかりである。

クドカン節に溺れる時間を味わうためにも、ぜひ映画館で見てほしい。

 

 

64-ロクヨン-後編

【評価】★☆☆☆☆

ださい映画。

 

【批評】

酷評するので、本作が好きな人は読まないでください。

 

さて、本作は終始センスのないシーンばかりでとにかく酷かった。日本映画の駄目なところが詰まっている映画だった。

 

特に酷かったのは、ラストに犯人を逮捕するシーン。逮捕される父親を見て娘が(わざとらしく)鳴き叫ぶ声が流れながらのスローモーション。

ださい。本当にダサい。そして寒い。

何も考えず「クライマックスはとりあえずスローモーションにしとけばいい」という『踊る大走査線』スタイルを見事に引き継いでいる。

 

 他にもダサいシーンは盛りだくさんである。

 

白目を向いて意識を失う柄本佑。本格派シリアス映画だと思ってたのに、急にギャグ描写。

 

誘拐事件解決後、いびきをかいて寝ている柄本佑。そんなアニメみたいな演出あるか。

 

コスプレメイクでよちよち歩きながら「母さん!」と叫ぶ窪田正孝。相変わらずコスプレを脱せないメイククオリティ。

 

それを見てさいばしを握りしめる母親。さいばしって!いつの映画だよ!

 

犯人を追い詰めるシーンでは、犯人は都合よく河原に逃げていく。「今からここでびしょ濡れアクションシーンやるよー」と言わんばかり。ダサい。

 

今思うと、タイトルシーンの佐藤浩一の顔面アップからしてダサかった。あそこからヤバい感じはしていた。

 

無論、脚本も甘い。

例えば犯人の娘(妹)は、雨宮宅に進入しているところを佐藤浩一に保護されて事件が展開するのだが、そもそも女の子はどうやって雨宮宅に行ったのか謎。雨宮に誘拐されかけた過去はあるものの、自宅まで連れて行かれたわけじゃないし、なぜ住所を知っていたのか。いや、住所を知ったところで小学生が1人で行けるわけがない。

そもそも、雨宮宅に行った目的は貰ったものを返すためだろうが、だとしたら工場に隠れる意味もなく、堂々と玄関先に置けばいい。意味不明。

つまり、すべては事件を解決に持っていくためのまさに「都合のいい」展開でしかない。

 

その後の三上の行動もさすがに反則技という感じで凄い後味が悪い。原作も同じなのだろうか。主人公は正義感が取り柄だと思っていたが、とんでもなく汚いやり方でがっかりした。

 

さらに気になったのは、主人公夫妻の娘失踪問題。これがなんと解決されずに終わるのだ。

もちろん、ラスト近くに、明るい音楽にのせながらの公衆電話からの着信によって、娘の無事を暗示してはいるのだが、さすがにそれは説明がなさすぎる。そこはしっかりと解決させないと、カタルシスなんて生まれるわけがない。前後編にして時間はたっぷりあるのだから回収すべきところはちゃんと回収してほしい。ひどい。

 

偽装誘拐事件のラスト、お金を燃やすシーンでは、すぐそこに雨宮がいるのに誰も身柄を抑えない。ていうか捜査員は気づいてもいない様子。模倣誘拐の元の事件の被害者がすぐそこにいるのにスルーする警察って、意味不明。どう考えても1番怪しいだろ。ひどい。

 

とまあ、あげればキリがないのだが、とにかくひどくてダサい映画だった。

 

気に入らないのは、テレビ局製作なので広告は派手にやっており、さも名作かのように取り上げられているところ。こんな映画にお金を落とす人は気の毒だ。やっぱり前後編商法は駄目だなと実感した。

 

原作は人気であり、おそらくよくできているのだろうと想像する。

結局、ポルノ映画専門の監督が急に超大作を任されてまったく料理できていないといったところ。

もうポルノ映画に戻っていただきたい。