少女

【評価】★★★☆☆

都合いいと捉えるか、綺麗に収めたと捉えるか

 

【批評】

湊かなえ作品はほぼ全て映像化されている。

日本アカデミー賞最優秀作品賞の『告白』に始まり、『白雪姫殺人事件』などの映画化、『夜行観覧車』『Nのために』『花の鎖』などのドラマ化、その他映像作品など、本を出せば映像化がセットであり、一時期の東野圭吾伊坂幸太郎ラインに完全に乗っている。

そして、湊かなえ作品は、わずかに波はあるものの、一定したブランド通りのクオリティを維持している。こうなると、原作の良し悪しというより、「湊かなえ」という素材をどう調理するかという勝負になっている。無論、中島哲也の『告白』がひとつの壁となっているのは事実であり、比べられることは拒否できない。さて、本作はどうであろうか。

 

結論としては、とてもよくまとまっている。

湊かなえ特有のいくつもの細かい人物相関を、控えめな説明描写で表現しきっている。主役となる二人の少女も、モデル出身の二人が難しい役どころをこなしているという印象だ。本田翼の演技はやや過剰な気もしたが、それもまぁそこまで気になるレベルではない。

 

さて、本作のテーマは「ヨルの綱渡り」である。つまり、10代の若者(ここはやはり「少女」というほうが正しいだろうが)の狭い視野における絶望感が、実は勘違いであり、成長とともに光が差し、開かれた世界に気付くというものだ。

 

ただし、(以降は原作でも問題があるところだと思われるのだが、)そうなるとストーリーにおいて気になる点がある。

 

それは、さすがに展開が都合が良すぎるのではないかという点だ。

「あのときのあの人がこの人で、、」というのは、物語のストーリーとしては計算されていて面白いのだが、ここまで繋がりすぎていると、都合が良すぎる印象がある。

 

人物が繋がりすぎると、世界が一気に狭くなる。『少女』の世界は、全ての出来事の因果関係がわずかな登場人物の中だけで完結しており、もはや半径5メートル以内で行われている話でしかない。無論、必然的な理由があってそうであれば良いのだが、必ずしもそうである必要がないことも繋げてしまうので、やり過ぎた感がある。これは逆に言えば、お話としての現実味を放棄していると言っていい。

 

本作のテーマが上記に述べたような「10代の視野の狭さ」であり、「本当は世界は開いている」ことなのであれば、物語自体の狭い世界観はメッセージと真逆のオチになっていて、気持ちが悪い。

 

一方で、この意見には反論もあろう。

それはつまり、ラストでの由紀と敦子の疾走シーンに射す夕陽こそ、新たな世界の始まりであり、閉じたヨルからの脱出を意味する、というものだ。さらに、ヨルからの脱出に失敗した紫織は死を選択するしかなくなる。なるほど、二人の少女と一人の少女の対比を描いていると考えれば筋が通っていなくもない。

 

しかし、自分の小説をパクって、新人賞を受賞した教師が、報復を受けて自殺したのを、たまたま図書館で会った青年が目撃し、教師は自殺の瞬間に都合よく原稿を持っており、バラバラになった原稿用紙が都合が良く青年にとって回収可能であり、そこに都合良くラストシーンが入っている、というのはあまりにも作り過ぎではないだろうか。

 

また、他の気になる点としては、由紀が書いた「ヨルの綱渡り」のラストに「A子に捧げる」と書かれていることだ。「小説が親友に捧げたものであること」は感動的ではあるが、敦子のことを「A子」って呼んでいたのはLINE上でのイジメと同じ呼称であり、親友として使ってはいけないと思う。

 

ただ、全体的なダークなイメージや、派手過ぎない演出は監督の腕が立っている。

大好きシーンは、それまで片足を引きずっていた敦子が普通に歩き出すところだ。観客自身が少女に騙されることを体験できる本シーンでは、少女が醸し出す危うくも妖しい物語性が説得力をもって表現されている。

 

また、主役の二人は勿論のこと、脇を固める児嶋一哉稲垣吾郎佐藤玲なども安定しており、ご都合主義のストーリー展開でも映画を観られるものにしている。

 

つまり、現実感を期待するというよりは、全体的な雰囲気を味わうタイプの映画と思えば、十分に楽しめる。

 

確かに、湊かなえのご都合主義は今に始まったことではないのだから。

君の名は。

【評価】★★★★☆

美しい絵と音楽で錯覚しよう!

 

【批評】

新海誠作品がついに世間に認められた(?)本作。本年の『シン・ゴジラ』に次ぐ社会現象となりつつある。

 

そもそも新海誠はこんなに売れるはずではない。新海誠作品といえば、セカイ系の代名詞とも言える『ほしのこえ』に始まり、幼い恋愛観をベースとした主人公の厨二的語りをだらだらと聞かされる、まさにサブカルオタク妄想映画のはずだった。

 

それでも、ファンの間で高い人気を得ているのは、ひとえに圧倒的な景色描写の美しさと音楽(とりわけJpop)の使い方の上手さにある。もともと、新海誠作品は、絵の綺麗さ10点、音楽の使い方10点、ストーリー2点の映画だと私は思っている。

 

過去作の中で最も人気の高い『秒速5センチメートル』なんて、落ち着いて考えたらたいしたストーリーではない。第一部はただただ電車に乗って女の子に会いに行くだけの話だし、第二部は思わせぶりな態度をとりつつ結局「前の女の子が忘れられないんだよ」と言うだけで、第三部は社会人になっても初恋の人が忘れられず会社を辞めるコミュ障の話。私は映画館で「何も起こらなくてつまらないなぁ、、」なんて思っていたら、突然の『One more time, One more chance』に心震え、美しい歌に合わせて流れる美しい景色描写に感動し、最終的には「いい映画を見たなぁ!」と満足して映画館を出たのを記憶している。そして、これこそが新海誠映画なのだ。

 

 次作『星を追う子ども』は強いジブリ意識で空振りした感はあったが、その後の『言の葉の庭』では、再び「景色描写+鬱語り+音楽」の方程式が復活していた。

 

そして今回の『君の名は。』は、鬱語りこそマイルド化したものの、方程式にほぼほぼ従っている。確かにストーリーには一捻りあったが、どこかで見たことあるような設定ではあるし、高校生が変電所を爆破するという無茶な展開、友達が無線にやたら詳しいといったご都合主義の展開は否めない。つまり、ストーリーはやはりそこまで評価されるものではない。それでも、「美しい景色描写+RADWIMPSの音楽」は最高で、心地がいい。冒頭のタイトルシーン、ラストのエンドロールまでの流れ、この2点の絵と音楽のコンビネーションは、他のアニメ映画ではありえない完成度である。そしてやはり、これだけでもう、いい映画を見ているような(良い意味の)錯覚をしてしまうのだ。

 

宮崎駿引退後の今、もはやジブリ作品だからといって売れるとも言い切れない時代になってきた。大衆ウケできる、漫画やアニメ原作でないアニメーション映画は細田守ぐらいに限られてきた感さえある。そこで、東宝が目をつけたのが新海誠であり、今回の大ヒットはまさに作戦が成功した形である。

 

また、ストーリーはそこまで、とは言ったものの、かつてに比べればとても見やすいものになっていると思う。例えば、冒頭から、入れ替わっていることにお互いに気付くところまでのテンポのよさは快適だった。観客はそもそも予告編等でだいたいの設定は知っているわけで、設定紹介をだらだらとやられても退屈するわけだが、効果的な場面やセリフと、テンポの良い展開からの『前前前世』までのノンストップ感は、まったく飽きる隙間を与えてくれなかった。

 

「絵10点、音楽10点、話2点」の新海誠作品が、「絵10点、音楽10点、話6点」になったという感じ。

 

美しい絵と音楽をフルに堪能できるのはやはり映画館だと思う。ぜひ錯覚をしに映画館まで足を運んでほしい。

 

TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ

【評価】★★★★☆

クドカン節が活きる設定!マザファッカー!

 

【批評】

宮藤官九郎映画には、クドカン脚本で監督は別である作品と、クドカンが監督も脚本も行っている作品があり、それらは別として考えなければいけない。

 

クドカン脚本で最も有名な映画は『舞妓Haaaan!!!』であるが、あれは脚本のみの参加だ。圧倒的なスピード感と独自の感性で名作となったわけだが、あれは監督の水田伸生によるところが大きい。

というのも、あれだけのとんでもストーリーを見事にまとめた監督の力量は凄い。クドカンの発想のオリジナリティは誰もが認めるところではあるが、それを2時間の映画枠に収め、観客の観れるものにしたのは監督の腕だ。

 

一方、宮藤官九郎の監督としての能力はこれまではあまり評価できるものではなかった。特に、前作の『中学生円山』では、思いついたギャグを順番に映像化したといった感じで話が進み、収拾がつかないまま、最後には強引にいい話に持って行こうとして大失敗していた。しかもそのギャグも30点ぐらいのギャグで、映画館ではくすくす笑いさえ起こっていなかったのを覚えている。このとき、やっぱり監督がいないと厳しいんだなぁと実感した。

 

そんな前作があるため、宮藤官九郎監督の今回もあまり期待せずに見に行ったのだが、それがいい意味で裏切られた。

 

映画館では笑いが起こっていたし、最後まで退屈することなく見ることができた。そう、本作は成功している。

 

本作成功の理由は、クドカンのギャグが活きる2つの設定にあると思う。

 

ひとつは、地獄という舞台設定だ。

クドカンのギャグには基本的にフリがない。脈略のない怒涛のギャグは、ときに観客を困惑させることがある。つまり、観客が普段生活している延長にはない単語が突然に投げ付けられるので、意外な展開で笑うというより不条理で笑えなくなることがある。しかし、本作は舞台を地獄とすることで、そもそも観客の普段の生活とは関係のない舞台であるがゆえに、不条理なギャグを見せられても理解できないのが当たり前で、ひとつひとつのワードや演出にむしろ素直に笑えてくる。実際、映画館では何度も笑いが起こっていた。クドカンのギャグは(例えば「団地」のような)既存の現実に入れ込むよりも、今回のように架空の舞台のほうが活きると思われる。

 

クドカンギャグが活きるもうひとつの設定は、バンド設定だ。

そもそも、クドカン自信がバンドをやっていたこともあり、音楽とサブカルチャーへの知識が深いし、その業界の人間たちとの繋がりも広い。地獄とバンド、サブカルの相性も抜群で、みうらじゅん片桐仁が自然とフィルムに入ってしまう。地獄のコードHなんて発想も面白すぎる。クドカンならではの単語である。

園子温の『TOKYO TRIBE』がラップミュージカル映画なら、本作は宮藤官九郎のロックミュージカル映画であり、こまめに入る音楽が映画にスピード感を与えており、気付いたら2時間経っていたという印象だった。

 

また、地獄だけのシーンでひたすら2時間やられると苦しいところもあるが、定期的に現世のシーンが入ることで、息抜きができるし、飽きることもなく見られる。

 

やや残念だったのは、ロックバトルのルールが意味不明で、ラスト直前はやっぱり収拾がつかなくなっているところだ。しかし、絵に勢いがあるので、あまり細かいことを気にしても仕方がない気がするし、ルールがなくてもごり押しできていると思う。

 

とにかく、地獄シーンのディテールへのこだわりは凄く、視覚的にも面白いシーンばかりである。

クドカン節に溺れる時間を味わうためにも、ぜひ映画館で見てほしい。

 

 

64-ロクヨン-後編

【評価】★☆☆☆☆

ださい映画。

 

【批評】

酷評するので、本作が好きな人は読まないでください。

 

さて、本作は終始センスのないシーンばかりでとにかく酷かった。日本映画の駄目なところが詰まっている映画だった。

 

特に酷かったのは、ラストに犯人を逮捕するシーン。逮捕される父親を見て娘が(わざとらしく)鳴き叫ぶ声が流れながらのスローモーション。

ださい。本当にダサい。そして寒い。

何も考えず「クライマックスはとりあえずスローモーションにしとけばいい」という『踊る大走査線』スタイルを見事に引き継いでいる。

 

 他にもダサいシーンは盛りだくさんである。

 

白目を向いて意識を失う柄本佑。本格派シリアス映画だと思ってたのに、急にギャグ描写。

 

誘拐事件解決後、いびきをかいて寝ている柄本佑。そんなアニメみたいな演出あるか。

 

コスプレメイクでよちよち歩きながら「母さん!」と叫ぶ窪田正孝。相変わらずコスプレを脱せないメイククオリティ。

 

それを見てさいばしを握りしめる母親。さいばしって!いつの映画だよ!

 

犯人を追い詰めるシーンでは、犯人は都合よく河原に逃げていく。「今からここでびしょ濡れアクションシーンやるよー」と言わんばかり。ダサい。

 

今思うと、タイトルシーンの佐藤浩一の顔面アップからしてダサかった。あそこからヤバい感じはしていた。

 

無論、脚本も甘い。

例えば犯人の娘(妹)は、雨宮宅に進入しているところを佐藤浩一に保護されて事件が展開するのだが、そもそも女の子はどうやって雨宮宅に行ったのか謎。雨宮に誘拐されかけた過去はあるものの、自宅まで連れて行かれたわけじゃないし、なぜ住所を知っていたのか。いや、住所を知ったところで小学生が1人で行けるわけがない。

そもそも、雨宮宅に行った目的は貰ったものを返すためだろうが、だとしたら工場に隠れる意味もなく、堂々と玄関先に置けばいい。意味不明。

つまり、すべては事件を解決に持っていくためのまさに「都合のいい」展開でしかない。

 

その後の三上の行動もさすがに反則技という感じで凄い後味が悪い。原作も同じなのだろうか。主人公は正義感が取り柄だと思っていたが、とんでもなく汚いやり方でがっかりした。

 

さらに気になったのは、主人公夫妻の娘失踪問題。これがなんと解決されずに終わるのだ。

もちろん、ラスト近くに、明るい音楽にのせながらの公衆電話からの着信によって、娘の無事を暗示してはいるのだが、さすがにそれは説明がなさすぎる。そこはしっかりと解決させないと、カタルシスなんて生まれるわけがない。前後編にして時間はたっぷりあるのだから回収すべきところはちゃんと回収してほしい。ひどい。

 

偽装誘拐事件のラスト、お金を燃やすシーンでは、すぐそこに雨宮がいるのに誰も身柄を抑えない。ていうか捜査員は気づいてもいない様子。模倣誘拐の元の事件の被害者がすぐそこにいるのにスルーする警察って、意味不明。どう考えても1番怪しいだろ。ひどい。

 

とまあ、あげればキリがないのだが、とにかくひどくてダサい映画だった。

 

気に入らないのは、テレビ局製作なので広告は派手にやっており、さも名作かのように取り上げられているところ。こんな映画にお金を落とす人は気の毒だ。やっぱり前後編商法は駄目だなと実感した。

 

原作は人気であり、おそらくよくできているのだろうと想像する。

結局、ポルノ映画専門の監督が急に超大作を任されてまったく料理できていないといったところ。

もうポルノ映画に戻っていただきたい。

ヒメアノ〜ル

【評価】★★★☆☆

中原中也さん何やってるんすか。

【批評】
森田演じる森田剛の演技は圧巻だった。
簡単に人を殺しちゃうヤバい感じ、普通の人にはあるものが足りない感じ。狂気の演技がはまり役だった。
彼を映画で見たのは『人間失格』のときの中原中也以来で、あのときは「なんで森田剛がでてくるの?」と思ったが、今回ばかりは見事な怪演である。
しかし、例え高校時代であっても彼のキャラはいじめられないだろうし、濱田岳と友達になることもないだろう。そのあたり、過去と現在の繋がりに違和感があって、原作改変の歪みが出ている。
 
ただ、監督が原作からストーリーを変えたことは賛成だ。そもそも、原作では森田と岡田は最初以外は交わらない。さらには森田と安藤が会話することも一切ない。原作のオチは森田が公園で寝てるところをサラッと逮捕されるだけであり、このオチには古谷実ファンの間でも批判が多い。これをそのまま映画化しても当然つまらないので、今回のような岡田と交わらせるラストを描くために、過去に友達だったという設定を加えたのだろう。
 
映画表現で好きだったのは、岡田のセックスシーンと森田の殺人シーンが交錯するところ。人にとってセックスが快楽であるように、森田にとって殺人が快楽であることが分かりやすく説明されていると同時に、エロとグロが同居する奇妙な体験をすることが出来た。本映画最高のシーンだと思う。
 
原作の森田はあくまで人の(特に女の)首を絞めることに性的興奮を感じる人間であり、その目的のために邪魔な奴は殺していくという設定だ。しかし、映画の森田は殺人自体に興奮するようで、死体を前にオナニーしたりする。一方でレイプもするので、もはや人を殺したいだけなのかレイプがしたいのかよく分からないけどとにかくヤバい奴といったキャラクター像だ。
 
R15指定なだけはあって、グロ描写には手加減がなく、思い切っていてよかった。鉛筆が喉にささるのとか、怖いだよなぁ、すぐに死なないのが。
 
 
ただ、映画としては全体的にディテールが甘くてB級を脱せない感じがある。
 
例えば、安藤は森田に背中から拳銃で撃たれるのだが、奇跡的に死なない。あんな至近距離で撃たれて、しかももう一発(たしか股間に)撃たれて出血しているのに死なないのはおかしい。私はこういうのを「都合の良い生存」と呼ぶことにしている。
つまり、安藤はメインキャラクターなので死なせることができないのだ。メインキャラクターが殺されると観客の理解を得られないのでその都合は分かるし、私も安藤が殺されたら嫌なのだが、だったら死なない理由が必要だろう。邪魔が入ってトドメを入れれなかったとか、安藤が逃げて急所に当たらなかったとか。数々の殺人を成功させてきている奴があの状況で殺し損ねるわけがない。安藤の生存はあまりにも都合がよくて興醒めだ。すぐに意識を取り戻すし。
 
あと、ラストでユカが襲われているところに岡田が助けに入るシーンには問題がある。ユカは家に帰ったときにドアにチェーンを掛けている。なのにその後に岡田は勢い良く部屋に入ってくる。これは確実に辻褄があっていない。窓から入ったことも考えられるが、だとしたらあんな勢いでは部屋に入ってこれない。なぜこんな初歩的なミスに気付かないのか。映画監督としての力量が問われる。
 
また、ユカのキャラクター設定も気に入らない。原作では「高嶺の花だけど話してみたら純粋でいい人」だが、映画では「セックス経験の多いぶりっ子女」という設定で、あまり可愛いと思えない。ていうか完全に作られた上目遣いで性格の悪ささえ滲み出ている。ユカが岡田に惚れた理由は不明であり(さすがにタイプというだけでは苦しい)、岡田が悪い女に騙されてる雰囲気すらある。これでは、ラストにユカが森田に襲われるときに、「ついにユカに魔の手が!」という感じが薄れてしまってよくない。もちろん可哀想なんだけど、なんか求めていたのと違う。
 
一方で濱田岳ムロツヨシの笑えるやり取りは秀逸で、映画の緩急に役立っている。安藤のキャラクターがあるからこそこの映画を見ることができ、まさに、観客の心の安らぎシーンとなっている。
 
そして忘れられないあのタイトルシーンである。『ピンクとグレー』にもあったような、「こっからが本番ですよ」という不気味さ。それまでが楽しいギャグシーンだっただけに、怖さが倍増される。「甘いシーンで楽しんでんじゃねぇよ」と脅されている感じで、なかなかの恐怖感だった。
 
グロシーンに問題がなければ、ぜひ映画館でこの恐怖を味わってほしい。

ひそひそ星

【評価】★★★★☆
帰ってきた園子温

【批評】
昨年は商業主義だろうが原作ものだろうが話が来たものから順番に映画を作って「質より量」を実行した園子温。そのスタンスはもはや三池崇史そのもので、「もっとじっくり撮ってくれよ」と思った人も多いのではないだろうか。
ところが一転、今度は自ら製作会社を立ち上げ、「本当に撮りたい映画を撮る」という思いのもと完成したのが本作「ひそひそ星」である。

私は園子温作品の中でもとりわけ『ヒミズ』が好きなのだが、世間的にはあまり評判はよくない。その理由の最たるものが、「被災地を使用した撮影」である。当時、『ヒミズ』はすでに台本が完成していたのだが、東日本大震災を受けて急遽修正。映画の冒頭は、生々しい被災地の瓦礫のなかで二階堂ふみが語り出すところから始まる。

園子温は計算というよりは感性で映画を撮る人だと思っているので、東日本大震災の大惨事を感性の映画監督がスルーできないのは当然であろう。ただし、その瓦礫の下で何人もの人が亡くなっているわけで、そんなおっさんの感性の材料にされて被災者がどう感じるかはわからない。批判が起こるのもまた、当然である。

しかし、園子温は我々の心配をよそに、その後も震災・原発に関連した映像を撮り続ける。『希望の国』では、被災地の映像は勿論のこと、ある意味幼い原発放射線被曝の知識で映画を固め、ショッキングな描写を行っている。

そして本作『ひそひそ星』でも、被災地、被災者を使った撮影を行っている。ただ、これまでの映画と異なる点は、震災から時間が経ったためか、園子温と震災の間に適当な距離が生まれ、かなり落ち着いた目線で震災を語っていることだ。これまでの直接的な描写は避け、詩的にメッセージを語っているため、見る人によって解釈が異なる、非常に文学的な作品になっている。そう、「園子温」が帰ってきたのだ。

構想自体は25年前に完成していたため、「滅びゆく人類」を描くことは決まっていたのであろう。ただ、それを「人類へのレクイエム」ととるか、それとも「人類の希望の提示」ととるかで、印象が違う。

震災からときが経ち、今や人々の記憶は着実に薄れつつある。(是非はどうであれ)原発は順次再稼働を進めているし、被災地報道も格段に減った。この悲しくも忘却する能力をもつ人類に対し、園子温は「終わりゆく種族」とも捉えているし、「記憶という希望をもった種族」とも捉えている。

タイトルのとおり、この映画はとても静かだ。登場人物は皆、ひそひそとささやくように話す。その結果、シンクに垂れる水滴の音、空き缶を踏む音、枝を地面に擦る音、そんな何気ない音がとても印象的に聞こえる。そう、我々の記憶は、そんな何気ない生活の中の何気ない音に囲まれているのだ。しかし、福島県の一部地域では未だその音も聞こえない、無の空間となったままであり、園子温はそこに「音」を鳴らすことで希望を提示している。

ラストシーン、人類が「30デシベル以上の音を鳴らすと死んでしまう」なんて、被曝放射線量の限界値に怯えながら暮らす人々そのものである。届けられた荷物の中身を見た人類は涙する。それは荷物にまつわる思い出や記憶から、ひそひそとして暮らす必要のなかった、自由に生きることができた日々を思い出したのかもしれない。

これは、園子温の警告か。希望か。ぜひ自分で見て感じてほしい。

64-ロクヨン-前編

【評価】★★☆☆☆
前後編商法の覚悟が見えない。

【批評】
とりあえず前編はつまらないと思う。

映画を前後編に分けることには、合理的な面もある。
長い原作を映画化するためには2時間では尺が足りない。3時間を超える映画は観客の集中力がもたないし、映画館としては回転が悪く迷惑な話。結果、前後編に分けることで、ストーリーはじっくり再現できるし、映画館にも迷惑がかからない。
観客のなかには上記の利点から歓迎する人もいるかもしれないが、一方で嫌がる人も多くいるのが事実。理由は明白で、それは「3,600円も払わされるから」である。

ならば、前後編に分けることを決めた製作陣には、ひとつの覚悟が必要である。それはつまり、「3,600円の価値がある映画を作る」ことだ。
ジュラシックパーク』の2倍面白い映画、『スターウォーズ エピソード7』の2倍面白い映画、『桐島部活やめるってよ』の2倍面白い映画を作らないといけない。

ところが、残念ながらこの映画にはその覚悟が見えない。

ひとつに、前編に強引に結末を作ろうとして失敗している点にある。

前編のストーリーは、①記者クラブと県警広報部との対立、②県警広報部とその他の部署や上層部との対立、③誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題の3つあるが、それぞれにおいてダメな点がぎっしりある。


はじめに、①の記者クラブと県警広報部の対立だが、これはもはや「能無しvs能無し」である。
記者クラブが事件関係者の実名公表を求めるのは最もではあるが、そんなことで本部長に抗議しに行く暇があったらさっさと取材なり根回しなりして自力で調べればいいし、実際そうしている。権力の暴走を止めるためにメディアが団結することが大事な場面があるにはあるが、使いどころを間違っている。
また、佐藤浩一が「原則、実名公表とする」という画期的な提案をしたときには、「『原則』って何ですかー?」と幼稚園児みたいな質問を自信満々にする。状況によっては実名公表ができないときもあることは報道に関わっている人には当然の話なのだが、そんなことも分からない無能集団が揚げ足をとってわーわーと喚いてるだけでイライラしてくる。

一方で、佐藤浩一の行動も納得できない。
彼は最終的に交通事故加害者の実名を公表するわけだが、それは加害者が警察関係者の娘という理由で守られていることに対して憤りを感じたからで、それだけを見れば美談に見える。
しかし、当初実名公表を拒否した理由である「加害者の女性が妊娠しているから」という事実は動かないわけで、最終的にそれは軽視されている。無論、妊娠について言及はするのだが、「警察の隠蔽なんて許さん!」という正義の前では消えて無くなっている。つまり、自分が実名公表したことで加害者女性がマスコミに袋叩きにされて、ストレスの結果に流産したとしても知ったこっちゃないわけだ。
もちろん、どっちの結論をとったとしても問題はあるわけだが、そのラストに持っていくためには、主人公が二つの正義の間で揺れ動く様子を描かないといけないのだが、この映画はそれを描ききれていない。榮倉奈々の「彼ら(メディア)をもっと信じてください」という言葉に心を動かされるわけだが、そもそも榮倉奈々がなぜそう考えるようになったのかは謎であり、その根拠なきアドバイスに動かされちゃう佐藤浩一もあわれである。最後には、自分がクビになるかならないかみたいな話になってて、「そこじゃないだろ!」と突っ込んでしまう。

そんな何の筋もない主人公は、最後には何の論理性もない説得を涙ながらに語って、なぜかそれに心動かされて記者クラブは納得する。
こんなシーンを見せられた観客には何のカタルシスも生まれない。


次に、②の広報部と上層部との対立であるが、そもそも「権力や世間体重視の上層部との対立」なんて『相棒』等でやり尽くされているわけで、今更見せられても二番煎じが否めない。
しかも、主人公の佐藤浩一は、特に戦略があるわけでもなく、ただただ熱くなって本部長の部屋に殴り込みに行く。
無論、そんなものは軽くあしらわれるわけだが、見ている方は「そうだ!正義を貫け!」というよりは、「それはさすがに失礼だろ。馬鹿じゃないのか」となってしまう。
「不器用な男」といえば聞こえがいいが、あれでは単なる困ったおじさんでしかない。


最後は、③の誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題である。誘拐事件の真相は後編になるとして、隠蔽問題には前編で一定の結末を見せている。というか、強引に見せようとして失敗している。
罪の意識から14年間も引きこもっていた窪田正孝は、佐藤浩一の「君は悪くない」という一言の手紙だけで、なぜか「救われた!!」となって号泣してカーテンを開ける。さすがに14年間引きこもっていた人間が、突然のたった一言だけで救われるのはあまりにも脈絡がなさすぎる。そもそも、佐藤浩一と窪田正孝が以前にどんな関係性だったのかまったく描かれておらず、佐藤浩一の一言の影響力が観客には実感できないため、とても不自然である。
というか、吉岡秀隆演じる幸田さんはいい人だから絶対に「君は悪くない」って何度も言ってると思うし。

さらに、窪田正孝の顔が綺麗すぎる。メイクで廃人感を出そうとしているのだが、明らかなつけ髭とかつら、かつ肌はとても綺麗で、芸人がコントするときの即興メイクぐらいの完成度である。14年間引きこもっていた人間は、当然不潔で吹き出物だってあるはずだし、あんな綺麗な顔で演技されても現実感がない。はっきり言って演出側はやる気がない。


以上のように、本映画は脚本にも演出にも穴だらけだ。
ただ、そうなってしまった理由は、おそらく、前編になんとか結末を作ろうとして、強引なストーリー展開を行ったことによるのではないだろうか。
観客が前編だけで離れてしまうことへの恐怖もあるとは思うが、どうせ前後編に分けるのであれば、全体としていい作品になるようにしてディテールを詰めて欲しかった。


ただ、唯一いいと思うのは、小田和正の主題歌と佐藤浩一の渋さのおかげで「いい映画を見てる感」が溢れていることだ。