64-ロクヨン-後編

【評価】★☆☆☆☆

ださい映画。

 

【批評】

酷評するので、本作が好きな人は読まないでください。

 

さて、本作は終始センスのないシーンばかりでとにかく酷かった。日本映画の駄目なところが詰まっている映画だった。

 

特に酷かったのは、ラストに犯人を逮捕するシーン。逮捕される父親を見て娘が(わざとらしく)鳴き叫ぶ声が流れながらのスローモーション。

ださい。本当にダサい。そして寒い。

何も考えず「クライマックスはとりあえずスローモーションにしとけばいい」という『踊る大走査線』スタイルを見事に引き継いでいる。

 

 他にもダサいシーンは盛りだくさんである。

 

白目を向いて意識を失う柄本佑。本格派シリアス映画だと思ってたのに、急にギャグ描写。

 

誘拐事件解決後、いびきをかいて寝ている柄本佑。そんなアニメみたいな演出あるか。

 

コスプレメイクでよちよち歩きながら「母さん!」と叫ぶ窪田正孝。相変わらずコスプレを脱せないメイククオリティ。

 

それを見てさいばしを握りしめる母親。さいばしって!いつの映画だよ!

 

犯人を追い詰めるシーンでは、犯人は都合よく河原に逃げていく。「今からここでびしょ濡れアクションシーンやるよー」と言わんばかり。ダサい。

 

今思うと、タイトルシーンの佐藤浩一の顔面アップからしてダサかった。あそこからヤバい感じはしていた。

 

無論、脚本も甘い。

例えば犯人の娘(妹)は、雨宮宅に進入しているところを佐藤浩一に保護されて事件が展開するのだが、そもそも女の子はどうやって雨宮宅に行ったのか謎。雨宮に誘拐されかけた過去はあるものの、自宅まで連れて行かれたわけじゃないし、なぜ住所を知っていたのか。いや、住所を知ったところで小学生が1人で行けるわけがない。

そもそも、雨宮宅に行った目的は貰ったものを返すためだろうが、だとしたら工場に隠れる意味もなく、堂々と玄関先に置けばいい。意味不明。

つまり、すべては事件を解決に持っていくためのまさに「都合のいい」展開でしかない。

 

その後の三上の行動もさすがに反則技という感じで凄い後味が悪い。原作も同じなのだろうか。主人公は正義感が取り柄だと思っていたが、とんでもなく汚いやり方でがっかりした。

 

さらに気になったのは、主人公夫妻の娘失踪問題。これがなんと解決されずに終わるのだ。

もちろん、ラスト近くに、明るい音楽にのせながらの公衆電話からの着信によって、娘の無事を暗示してはいるのだが、さすがにそれは説明がなさすぎる。そこはしっかりと解決させないと、カタルシスなんて生まれるわけがない。前後編にして時間はたっぷりあるのだから回収すべきところはちゃんと回収してほしい。ひどい。

 

偽装誘拐事件のラスト、お金を燃やすシーンでは、すぐそこに雨宮がいるのに誰も身柄を抑えない。ていうか捜査員は気づいてもいない様子。模倣誘拐の元の事件の被害者がすぐそこにいるのにスルーする警察って、意味不明。どう考えても1番怪しいだろ。ひどい。

 

とまあ、あげればキリがないのだが、とにかくひどくてダサい映画だった。

 

気に入らないのは、テレビ局製作なので広告は派手にやっており、さも名作かのように取り上げられているところ。こんな映画にお金を落とす人は気の毒だ。やっぱり前後編商法は駄目だなと実感した。

 

原作は人気であり、おそらくよくできているのだろうと想像する。

結局、ポルノ映画専門の監督が急に超大作を任されてまったく料理できていないといったところ。

もうポルノ映画に戻っていただきたい。

ヒメアノ〜ル

【評価】★★★☆☆

中原中也さん何やってるんすか。

【批評】
森田演じる森田剛の演技は圧巻だった。
簡単に人を殺しちゃうヤバい感じ、普通の人にはあるものが足りない感じ。狂気の演技がはまり役だった。
彼を映画で見たのは『人間失格』のときの中原中也以来で、あのときは「なんで森田剛がでてくるの?」と思ったが、今回ばかりは見事な怪演である。
しかし、例え高校時代であっても彼のキャラはいじめられないだろうし、濱田岳と友達になることもないだろう。そのあたり、過去と現在の繋がりに違和感があって、原作改変の歪みが出ている。
 
ただ、監督が原作からストーリーを変えたことは賛成だ。そもそも、原作では森田と岡田は最初以外は交わらない。さらには森田と安藤が会話することも一切ない。原作のオチは森田が公園で寝てるところをサラッと逮捕されるだけであり、このオチには古谷実ファンの間でも批判が多い。これをそのまま映画化しても当然つまらないので、今回のような岡田と交わらせるラストを描くために、過去に友達だったという設定を加えたのだろう。
 
映画表現で好きだったのは、岡田のセックスシーンと森田の殺人シーンが交錯するところ。人にとってセックスが快楽であるように、森田にとって殺人が快楽であることが分かりやすく説明されていると同時に、エロとグロが同居する奇妙な体験をすることが出来た。本映画最高のシーンだと思う。
 
原作の森田はあくまで人の(特に女の)首を絞めることに性的興奮を感じる人間であり、その目的のために邪魔な奴は殺していくという設定だ。しかし、映画の森田は殺人自体に興奮するようで、死体を前にオナニーしたりする。一方でレイプもするので、もはや人を殺したいだけなのかレイプがしたいのかよく分からないけどとにかくヤバい奴といったキャラクター像だ。
 
R15指定なだけはあって、グロ描写には手加減がなく、思い切っていてよかった。鉛筆が喉にささるのとか、怖いだよなぁ、すぐに死なないのが。
 
 
ただ、映画としては全体的にディテールが甘くてB級を脱せない感じがある。
 
例えば、安藤は森田に背中から拳銃で撃たれるのだが、奇跡的に死なない。あんな至近距離で撃たれて、しかももう一発(たしか股間に)撃たれて出血しているのに死なないのはおかしい。私はこういうのを「都合の良い生存」と呼ぶことにしている。
つまり、安藤はメインキャラクターなので死なせることができないのだ。メインキャラクターが殺されると観客の理解を得られないのでその都合は分かるし、私も安藤が殺されたら嫌なのだが、だったら死なない理由が必要だろう。邪魔が入ってトドメを入れれなかったとか、安藤が逃げて急所に当たらなかったとか。数々の殺人を成功させてきている奴があの状況で殺し損ねるわけがない。安藤の生存はあまりにも都合がよくて興醒めだ。すぐに意識を取り戻すし。
 
あと、ラストでユカが襲われているところに岡田が助けに入るシーンには問題がある。ユカは家に帰ったときにドアにチェーンを掛けている。なのにその後に岡田は勢い良く部屋に入ってくる。これは確実に辻褄があっていない。窓から入ったことも考えられるが、だとしたらあんな勢いでは部屋に入ってこれない。なぜこんな初歩的なミスに気付かないのか。映画監督としての力量が問われる。
 
また、ユカのキャラクター設定も気に入らない。原作では「高嶺の花だけど話してみたら純粋でいい人」だが、映画では「セックス経験の多いぶりっ子女」という設定で、あまり可愛いと思えない。ていうか完全に作られた上目遣いで性格の悪ささえ滲み出ている。ユカが岡田に惚れた理由は不明であり(さすがにタイプというだけでは苦しい)、岡田が悪い女に騙されてる雰囲気すらある。これでは、ラストにユカが森田に襲われるときに、「ついにユカに魔の手が!」という感じが薄れてしまってよくない。もちろん可哀想なんだけど、なんか求めていたのと違う。
 
一方で濱田岳ムロツヨシの笑えるやり取りは秀逸で、映画の緩急に役立っている。安藤のキャラクターがあるからこそこの映画を見ることができ、まさに、観客の心の安らぎシーンとなっている。
 
そして忘れられないあのタイトルシーンである。『ピンクとグレー』にもあったような、「こっからが本番ですよ」という不気味さ。それまでが楽しいギャグシーンだっただけに、怖さが倍増される。「甘いシーンで楽しんでんじゃねぇよ」と脅されている感じで、なかなかの恐怖感だった。
 
グロシーンに問題がなければ、ぜひ映画館でこの恐怖を味わってほしい。

ひそひそ星

【評価】★★★★☆
帰ってきた園子温

【批評】
昨年は商業主義だろうが原作ものだろうが話が来たものから順番に映画を作って「質より量」を実行した園子温。そのスタンスはもはや三池崇史そのもので、「もっとじっくり撮ってくれよ」と思った人も多いのではないだろうか。
ところが一転、今度は自ら製作会社を立ち上げ、「本当に撮りたい映画を撮る」という思いのもと完成したのが本作「ひそひそ星」である。

私は園子温作品の中でもとりわけ『ヒミズ』が好きなのだが、世間的にはあまり評判はよくない。その理由の最たるものが、「被災地を使用した撮影」である。当時、『ヒミズ』はすでに台本が完成していたのだが、東日本大震災を受けて急遽修正。映画の冒頭は、生々しい被災地の瓦礫のなかで二階堂ふみが語り出すところから始まる。

園子温は計算というよりは感性で映画を撮る人だと思っているので、東日本大震災の大惨事を感性の映画監督がスルーできないのは当然であろう。ただし、その瓦礫の下で何人もの人が亡くなっているわけで、そんなおっさんの感性の材料にされて被災者がどう感じるかはわからない。批判が起こるのもまた、当然である。

しかし、園子温は我々の心配をよそに、その後も震災・原発に関連した映像を撮り続ける。『希望の国』では、被災地の映像は勿論のこと、ある意味幼い原発放射線被曝の知識で映画を固め、ショッキングな描写を行っている。

そして本作『ひそひそ星』でも、被災地、被災者を使った撮影を行っている。ただ、これまでの映画と異なる点は、震災から時間が経ったためか、園子温と震災の間に適当な距離が生まれ、かなり落ち着いた目線で震災を語っていることだ。これまでの直接的な描写は避け、詩的にメッセージを語っているため、見る人によって解釈が異なる、非常に文学的な作品になっている。そう、「園子温」が帰ってきたのだ。

構想自体は25年前に完成していたため、「滅びゆく人類」を描くことは決まっていたのであろう。ただ、それを「人類へのレクイエム」ととるか、それとも「人類の希望の提示」ととるかで、印象が違う。

震災からときが経ち、今や人々の記憶は着実に薄れつつある。(是非はどうであれ)原発は順次再稼働を進めているし、被災地報道も格段に減った。この悲しくも忘却する能力をもつ人類に対し、園子温は「終わりゆく種族」とも捉えているし、「記憶という希望をもった種族」とも捉えている。

タイトルのとおり、この映画はとても静かだ。登場人物は皆、ひそひそとささやくように話す。その結果、シンクに垂れる水滴の音、空き缶を踏む音、枝を地面に擦る音、そんな何気ない音がとても印象的に聞こえる。そう、我々の記憶は、そんな何気ない生活の中の何気ない音に囲まれているのだ。しかし、福島県の一部地域では未だその音も聞こえない、無の空間となったままであり、園子温はそこに「音」を鳴らすことで希望を提示している。

ラストシーン、人類が「30デシベル以上の音を鳴らすと死んでしまう」なんて、被曝放射線量の限界値に怯えながら暮らす人々そのものである。届けられた荷物の中身を見た人類は涙する。それは荷物にまつわる思い出や記憶から、ひそひそとして暮らす必要のなかった、自由に生きることができた日々を思い出したのかもしれない。

これは、園子温の警告か。希望か。ぜひ自分で見て感じてほしい。

64-ロクヨン-前編

【評価】★★☆☆☆
前後編商法の覚悟が見えない。

【批評】
とりあえず前編はつまらないと思う。

映画を前後編に分けることには、合理的な面もある。
長い原作を映画化するためには2時間では尺が足りない。3時間を超える映画は観客の集中力がもたないし、映画館としては回転が悪く迷惑な話。結果、前後編に分けることで、ストーリーはじっくり再現できるし、映画館にも迷惑がかからない。
観客のなかには上記の利点から歓迎する人もいるかもしれないが、一方で嫌がる人も多くいるのが事実。理由は明白で、それは「3,600円も払わされるから」である。

ならば、前後編に分けることを決めた製作陣には、ひとつの覚悟が必要である。それはつまり、「3,600円の価値がある映画を作る」ことだ。
ジュラシックパーク』の2倍面白い映画、『スターウォーズ エピソード7』の2倍面白い映画、『桐島部活やめるってよ』の2倍面白い映画を作らないといけない。

ところが、残念ながらこの映画にはその覚悟が見えない。

ひとつに、前編に強引に結末を作ろうとして失敗している点にある。

前編のストーリーは、①記者クラブと県警広報部との対立、②県警広報部とその他の部署や上層部との対立、③誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題の3つあるが、それぞれにおいてダメな点がぎっしりある。


はじめに、①の記者クラブと県警広報部の対立だが、これはもはや「能無しvs能無し」である。
記者クラブが事件関係者の実名公表を求めるのは最もではあるが、そんなことで本部長に抗議しに行く暇があったらさっさと取材なり根回しなりして自力で調べればいいし、実際そうしている。権力の暴走を止めるためにメディアが団結することが大事な場面があるにはあるが、使いどころを間違っている。
また、佐藤浩一が「原則、実名公表とする」という画期的な提案をしたときには、「『原則』って何ですかー?」と幼稚園児みたいな質問を自信満々にする。状況によっては実名公表ができないときもあることは報道に関わっている人には当然の話なのだが、そんなことも分からない無能集団が揚げ足をとってわーわーと喚いてるだけでイライラしてくる。

一方で、佐藤浩一の行動も納得できない。
彼は最終的に交通事故加害者の実名を公表するわけだが、それは加害者が警察関係者の娘という理由で守られていることに対して憤りを感じたからで、それだけを見れば美談に見える。
しかし、当初実名公表を拒否した理由である「加害者の女性が妊娠しているから」という事実は動かないわけで、最終的にそれは軽視されている。無論、妊娠について言及はするのだが、「警察の隠蔽なんて許さん!」という正義の前では消えて無くなっている。つまり、自分が実名公表したことで加害者女性がマスコミに袋叩きにされて、ストレスの結果に流産したとしても知ったこっちゃないわけだ。
もちろん、どっちの結論をとったとしても問題はあるわけだが、そのラストに持っていくためには、主人公が二つの正義の間で揺れ動く様子を描かないといけないのだが、この映画はそれを描ききれていない。榮倉奈々の「彼ら(メディア)をもっと信じてください」という言葉に心を動かされるわけだが、そもそも榮倉奈々がなぜそう考えるようになったのかは謎であり、その根拠なきアドバイスに動かされちゃう佐藤浩一もあわれである。最後には、自分がクビになるかならないかみたいな話になってて、「そこじゃないだろ!」と突っ込んでしまう。

そんな何の筋もない主人公は、最後には何の論理性もない説得を涙ながらに語って、なぜかそれに心動かされて記者クラブは納得する。
こんなシーンを見せられた観客には何のカタルシスも生まれない。


次に、②の広報部と上層部との対立であるが、そもそも「権力や世間体重視の上層部との対立」なんて『相棒』等でやり尽くされているわけで、今更見せられても二番煎じが否めない。
しかも、主人公の佐藤浩一は、特に戦略があるわけでもなく、ただただ熱くなって本部長の部屋に殴り込みに行く。
無論、そんなものは軽くあしらわれるわけだが、見ている方は「そうだ!正義を貫け!」というよりは、「それはさすがに失礼だろ。馬鹿じゃないのか」となってしまう。
「不器用な男」といえば聞こえがいいが、あれでは単なる困ったおじさんでしかない。


最後は、③の誘拐事件の紹介と過去の隠蔽問題である。誘拐事件の真相は後編になるとして、隠蔽問題には前編で一定の結末を見せている。というか、強引に見せようとして失敗している。
罪の意識から14年間も引きこもっていた窪田正孝は、佐藤浩一の「君は悪くない」という一言の手紙だけで、なぜか「救われた!!」となって号泣してカーテンを開ける。さすがに14年間引きこもっていた人間が、突然のたった一言だけで救われるのはあまりにも脈絡がなさすぎる。そもそも、佐藤浩一と窪田正孝が以前にどんな関係性だったのかまったく描かれておらず、佐藤浩一の一言の影響力が観客には実感できないため、とても不自然である。
というか、吉岡秀隆演じる幸田さんはいい人だから絶対に「君は悪くない」って何度も言ってると思うし。

さらに、窪田正孝の顔が綺麗すぎる。メイクで廃人感を出そうとしているのだが、明らかなつけ髭とかつら、かつ肌はとても綺麗で、芸人がコントするときの即興メイクぐらいの完成度である。14年間引きこもっていた人間は、当然不潔で吹き出物だってあるはずだし、あんな綺麗な顔で演技されても現実感がない。はっきり言って演出側はやる気がない。


以上のように、本映画は脚本にも演出にも穴だらけだ。
ただ、そうなってしまった理由は、おそらく、前編になんとか結末を作ろうとして、強引なストーリー展開を行ったことによるのではないだろうか。
観客が前編だけで離れてしまうことへの恐怖もあるとは思うが、どうせ前後編に分けるのであれば、全体としていい作品になるようにしてディテールを詰めて欲しかった。


ただ、唯一いいと思うのは、小田和正の主題歌と佐藤浩一の渋さのおかげで「いい映画を見てる感」が溢れていることだ。

スポットライト 世紀のスクープ

【評価】★★★★☆

巨悪の再発を防ぐ価値ある映画。アカデミー賞作品賞も納得。
 
【批評】
本作に派手な演出は一切ない。暴力シーンもなければ性描写もない。ただただ、巨悪と戦うジャーナリストを描いた(ほぼ)ドキュメンタリー映画である。
 
カトリックやら教会やら、そのあたりの感覚は日本ではなかなか実感が湧かないところがあり、予習することをオススメする。
 
簡単にだけ述べておくと、事件のポイントは次の3点。
 
1. アメリカでは各地域にカトリック教会があり、信仰が根付いている。彼らにとって教会は神聖な場所であり、神父は神そのものである。そんな神父に我が子が特別扱いされるのは、親にとって喜びであり、子供にとっても光栄なこと。よって、神父に性的虐待を持ち込まれても逆らえないし、被害を受けてもなかなか打ち明けられない。
 
2. カトリックの神父は性行為が禁止されており、公には性欲を満たすことができない。その結果、手近にいる子供に手が伸びやすい。無論、この事実によって彼らの犯罪を擁護するものではない。
 
3. 教会は政治、司法、警察、メディア、地元社会との繋がりが強く、ある意味最大の権力機構である。裁判所の証拠品にだって手を入れる所業であり、組織ぐるみで児童への性的虐待を隠蔽していた。
 
 
ボストンの地元紙グローブがスクープしたこの事件は世界に衝撃を与えた。問題はボストンにとどまらず、アメリカ全土、世界に広がった。
それだけでピューリツァー賞は当然なのだが、ではそのスクープを映画化した本作は映画として評価できるのだろうか。
 
結果として、映画はとても面白い。無用にカトリックを敵視するものではなく、むしろ新聞記者たちの地道な取材過程を描いた点が良かった。
 
派手な演出はないが、事実が少しづつ明らかになっていく過程には恐怖を覚えるし、静かに葛藤を続ける記者たちの正義感には感動させられる。役者の演技もリアルであり、とくに証拠の獲得に走り回るマイク・レゼンデスを演じたマーク・ラファロが叫ぶシーンは力が入る。ちなみに、彼の実物の再現具合もなかなかいいらしい。
 
個人的には、スポットライトチームのリーダーであるウォルター"ロビー"ロビンソンを演じたマイケル・キートンに引き込まれた。彼は自分がかつて事件の一端を知りながらも注視しなかったという苦しい過去にぶち当たる。その後悔と自責の念と戦いながら、目先のスクープに囚われることなく、カトリック組織そのものに焦点を合わせてチームを率いていく。多くは喋らないが、彼のその目に宿る思いは映画演出でしか感じられない強いものがある。ぜひ、映画館で感じ取って欲しい。
 
 
本事件は、過剰な権力集中が腐敗を生み出すことの象徴であるがゆえに、映画化してより多くの人に知られるべきである。また、アカデミー賞として歴史に残ることで、これからのカトリックへの監視の役割も果たしている。本当に価値のある作品である。
 
 
鑑賞後は決していい気分ではない。それでも、より多くの人に見て欲しい。

アイアムアヒーロー

【評価】★★★★★

これぞ和製ゾンビ映画。かなり頑張っている。

 

【批評】

進撃の巨人』スタッフにはこれを見て反省してほしい。

 

「漫画原作の実写化」はどうにも嫌われがちであるが、その理由は、実写化に立ちはだかるいくつかのハードルにある。

・原作でキモとなるシーンの再現度合いが低く、ファンの期待に答えられない。

・原作通りのストーリー展開では2時間で収まらない。

・原作は連載が続いているが、映画では一定の結末を提示する必要がある。

・虚構が強い漫画を日本のCG技術ではリアルに再現できない。

・漫画の台詞を役者にしゃべらすとキャラクターが陳腐になる。

などなど。

 

他にもいくつか要素はあると思うが、『進撃の巨人』は上記のハードルすべてに見事にぶちあたって転げ落ちたことは周知の事実であろう。


一方で本作『アイアムアヒーロー』は、なんとかそれぞれのハードルを超えるラインに到達しており、ひいては映画オリジナルの恐怖感と爽快感の演出に成功している。


 個人的にかなりお気に入りのシーンが2つある。


一つは、鈴木英雄視点で描かれる、日常から非日常への展開。

ゾンビ映画では、平和な日常がウイルスに侵食されていく過程をどうしても描かざるを得ない。(『アイアムレジェンド』という裏技もあるが。)原作ではそれを1巻丸ごと使う力の入れようで、またその最終シーンのあまりの衝撃さに読者は引き込まれる。

無論、映画の限られた尺の中ではそんなに時間を割けるわけもないのだが、その点、本作ではかなりうまく演出している。徹子のシーンは予想以上の迫力だし、仕事場での塚地武雅の狂気にはハラハラさせられる。そして、街中でひとり、またひとりとZQNの餌食になって、ついにはパニック状態に発展するまでの過程の疾走感たるや、映画独自の楽しさであり、素晴らしい。


また、クライマックスシーンも圧巻だ。

原作漫画は現在20巻まで出版されており、今なお連載は続いている。その作品に、映画としての結末を提示するためには、脚本の修正が強いられるわけだが、本作ではラスボスを作り出すことで映画としての完結に成功している。そのラスボスがまた、なかなかに手強くて、観客はハラハラすること間違いない。


大泉洋の演技も際立っている。というか、鈴木英雄を演じられるのは大泉洋以外にいない。

原作で描かれる頼りない感じ、馬鹿真面目なところ、でもいざという時にヒーローとなる瞬間、、。鈴木英雄そのものである。また、途中の間の抜けたセリフなんかも、漫画実写化特有のすべりはなく、普通に笑えたから凄い。緩急の演技がシームレスで繋がるあたり、大泉洋の力量は大きい。


あえて文句をつけるなら、タクシーがあれだけ事故ったのに人間は無傷でZQNは消えて無くなるってのはどうかと思うが、これはもうゾンビ映画のお約束なので突っ込まないこととする。(『ワールドウォーZ』なんて、飛行機が落ちても人間だけが生き残る都合良さっぷりだった。)


私は本作を「和製ゾンビ映画」としての完成系だと思っている。銃社会のアメリカではゾンビと戦う時も勿論銃をぶっ放すわけだが、日本ではそうはいかない。効くわけもないモデルガンを手にして戦う様はアメリカでは理解されないかもしれないが、これは和製ゾンビ映画ならではのシーンだと思う。

また本作メインのZQN描写も、R15指定であることに迷いのない振り切ったグロ描写も、「よくやってくれた」と言いたい。ときどき日本映画にある必要性のないグロ描写ではなく、本作でのグロ描写は観客を引き込むために必要な演出であり、効果的に使われている。なお、ZQN演出は韓国の会社によって手掛けられており、この点も、日本だけではできない完成度を達成させたよい判断である。



監督、脚本、演出、演技、特殊効果。

映画ならではの要素がつまりにつまった本作こそ、GWに見るべき一本である。


 

 

名探偵コナン 純黒の悪夢

【評価】★★☆☆☆

蘭ねーちゃんの「すぃいいんいぃちちぃぃーーー!!」が映画で見れないなんて。
 
【批評】
赤井秀一と安室透が主人公。その他は脇役。
 
コナンの映画は毎年「推理」を放棄していて、ただのアクション映画であることはご存知の通りであるが、それでも毎年ほんの少しは推理要素があったはず。しかし今回は本当に推理要素は無く、アクションのみ。でもまあ、コナン映画を観に行く層が今更そんなことに文句を付けるはずはないだろうし、また、本作はその代わりに黒の組織との対決がふんだんに描かれており、コナンファンとして嬉しいところであろう。
 
実際、冒頭のアクションシーンは掴みとしてはよかったし、コナン映画定番の蘭ねーちゃんによる「すぃいいんいぃちちぃぃーーー!!」のシーンは無く、「対黒の組織」にフォーカスした点は良かったと思う。
 
原作本筋の「組織No.2の[ラム]とは一体誰なのか?」という謎解きについては、さすがに映画では進展はないのだが、「安室と松田刑事」という新しい関係性が提示されるとともに、安室がなぜ赤井秀一を敵視するのかについてもヒントが与えられている。このあたりは原作でも明かされていない部分について踏み込んでおり、原作連載を追っているコアファンにとっても楽しめる要素になっている。
 
ただし、映画の脚本としてはさすがに突っ込みどころが多過ぎて、良しとはできない。
 
まず、「ゴンドラごと拉致する」って絶対無理だし。あんな特注品のヘリ持ってるって相当目立つと思うんだけど。黒の組織は秘密裏に活動しているはずなんだけど、もはや自分たちから目立ちにいってるとしか思えない。また、安室は公安として重要な任務中に、赤井に喧嘩をふっかけて殴り合いを始める始末。しかも観覧車の上で。いやいやいや、とりあえず黒の組織を捕まえてから好きなだけ喧嘩しとけよと。
 
あと、(これは私が映画をちゃんと見れていないのかもしれないので、明確な理由があるならば教えてほしいんですが、)公安はキュラソーの記憶を取り戻させるために彼女を観覧車に入れるわけだけど、そもそも色彩をもとに記憶を取り戻すなら同じ色のフィルムを見せればいいだけではないだろうか。観覧車に乗せなければいけない理由がよくわからないし、一方でなぜ黒の組織は公安がキュラソーを観覧車に乗せることを従前に(少なくともあのヘリを用意できるほど十分な時間を確保できるほどに)予測できたのかはよく分からない。結局の所、観覧車に乗せる必然性はなく、映画のクライマックスシーンのために、「観覧車ありき」だったとしか思えない。
 
脚本の決定的に冷めた部分は、キュラソーの改心までの過程の弱さにある。記憶を取り戻したキュラソーは最終的に黒の組織を裏切るわけだが、そのきっかけは、子どもたちから「自分の好きな色に染めるんだ」という言葉に触発されたことだ。いやー、黒の組織のメンバーのマインドの弱さと言ったら無いね。そんなこと言われたぐらいで裏切られるようじゃ、闇の組織としてガバガバですわ。
 
 
まとめると、アクションのアニメーションには力を入れているものの、肝心の脚本は穴だらけで、さすがに映画のひとつとしては評価できない。それでも、上記したような原作にはない話もあるので、コナンファンとしては当然に見ておくべき作品だろう。
 
でも、最後にひとつだけ言わせてほしい。
 
コナン映画の登場人物、記憶無くし過ぎ!!