彼女がその名を知らない鳥たち

【評価】★★★☆☆

陣治は「いい人」ではない。

 

【批評】

 

◾️導入の巧みさ

 

まず冒頭の10分で引き込まれた。

 

上手い映画というのは、主要な登場人物のキャラクター(性格、置かれている状況、表面上の関係性)を画で簡潔に説明するものだ。

本作では、はじめに十和子(蒼井優)のクレーマーっぷりを描くことで、十和子が満たされない毎日を過ごしていることを表している。また、一瞬見切れた男の影を追うシーンだけで、過去の男に未練があることも説明している。

陣治(阿部サダヲ)が過剰に十和子が大好きなことも、その陣治の不潔っぷりで嫌な感じも、電話と食事シーンだけで手際良く表現されている。

映画の冒頭が入りやすいことは、映画に感情移入できるためにとても重要なファクターであり、そこをクリアしているだけでも、本作は優秀である。

 

 

◾️なぜか汚い陣治

 

また、陣治をあえて極端に汚く映しているところも面白い。彼は顔面が常に黒ずんでいるんのだ。いくら土建現場の作業員といえども顔ぐらい洗うし、あんなに汚れているのは不自然である。つまり、意図的に汚くしているのだ。

 

これについては、「十和子の黒い過去を陣治が引き受けているがために、陣治は薄汚れている」ということが後から分かる。終わってから振り返ってみると、観客が陣治に抱いていた違和感はここから来ていたのかと、関心させられる。

 

 

◾️食事シーンから見える繋がり

 

作中での十和子と陣治の食事シーンは、観客の記憶に残る印象的なシーンであるが、本作では食事シーンによって二人の繋がり具合を表現している。

マンション生活初期の回想シーンでは幸せの象徴であるすきやきを食べる。十和子が満たされていないときは、うどんのような味気の薄い食事。男ができてすれ違い始めると、パンは潰れるし、外食になってしまう。

 

最も面白かったのは、陣治が殺人犯であることが分かった直後に肉を焼いて食べていることだ。(しかもそれなりに美味しそうに食べるのだ。)ここでは、これまでとは違う、二人のヘビーな関係性の始まりを暗示していると思われる。

 

 

◾️タッキリマカン

 

十和子と水島(松坂桃李)のホテルシーンで、「タクラマカン(タッキリマカン)砂漠」が「永遠の死」を意味する、という話が紹介される。

鑑賞中は、十和子と水島の関係が、所詮は不倫であり、虚しい終末を迎えることを暗示しているのかなと思っていたが、後からは、むしろ十和子と陣治の関係に未来がないことを表しているのだと感じた。陣治と住むあのアパート部屋こそが、未来のない、「永遠の死」の居場所なのかもしれない。

 

 

◾️陣治は「いい人」ではない

 

さて、終映後のお客さんの会話を聞いていると「結局、陣治がすごいいい人ってことだよね」と話していたり、いくつかのレビューサイトでも「陣治の無償の愛に感動した」とあったりするのだが、私はその評価には賛同できない。

 

陣治は全然いい人ではない。十和子よりもよっぽどメンヘラで、DV気質だ。

 

ストーキングが過度なことは勿論のこと、車で一方通行を逆走しても「まぁいっか」で済ませてしまうところに、人の道を外しかねない異常性が垣間見える。(まあ、これらは「陣治が黒崎を殺した」と観客に思わせるミスリードでもあるのだが。)

 

さらに、出会いの回想シーンのときには、陣治は十和子にメダカを買ってくる。あの場面を「純粋だけど不器用な陣治」みたいに笑ってほっこり見ることはできない。メダカを虫かごに入れているんだよ。あんなメダカ、すぐに死ぬわけで。あれは暗に「十和子を虫かごに入れて飼い殺したい」っていう陣治の欲望が表れているシーンで、凄いホラーだと思う。

 

 

◾️なぜ陣治は自殺したのか?

 

また、観客は終映後にある疑問も持ったであろう。それは、なぜそこまで十和子への所有欲をもつ陣治が、最後には自殺を選択したのか。この理由について作中では十分に説明されていない。

 

表向きは、「十和子の罪をかぶるため」だが、だとすればやはりなぜ自殺しなければいけないのかわからない。

黒崎の殺人も、水島の傷害も、まだ明るみに出るとは限らない。むしろ、陣治があんな目立つ自殺をすれば、それらの事件が表面化する危険性は高まるであろう。そして仮に事件がバレたとしたら、陣治が罪を被って生きたまま刑務所に入ればいいじゃないか。

 

つまり、陣治の自殺は辻褄が合わない行動であり、フィクション性が強い。そしてそういう描写には、必ず作り手の意図がある。

 

そこで、私は以下のように考えている。

 

 

長澤まさみが夫の錦戸亮のDVに苦しむドラマ『ラスト・フレンズ』でもあったが、メンヘラは最後には自殺する。それは、自殺すると「その人の永遠になれるから」だ。

 

目の前で人が「君のことを愛してる」って言って自殺したら、どんなに嫌いでも永遠の存在になってしまう。好きかどうかは別にして忘れることができなくなる。ましてや今回は、「十和子が子供を産んだらそれは俺や」と発言している。これは恐怖だよ。

例えば、将来、十和子が新しい男と幸せになったとしても、陣治の存在からは逃げられないのだ。ある意味、究極の束縛である。そしてこんな考えを持つ陣治を「いい人」と判断することは私にはできない。

 

 

 

勿論、陣治以外の男がクソなのも間違いない。

 

つまり、「彼女がその名を知らない鳥たち」は、歪んだ恋愛感を持った鳥たち(=男たち)の話だったのだ。

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール

【評価】★★☆☆☆

水原希子のセクシーシーンのためだけの映画。だが、それでいい。

 

【批評】

そもそも水原希子が嫌いな人は絶対に受け入れられない映画なので、その時点で一定数の観客を排除しているなあとは思う。

後は、観客それぞれの恋愛観や経験と照らして、受け入れられるか否かが分かれるだろう。

 

というのも、本作は「天海あかり(水原希子)が良い女と思えるかどうか」で好き嫌いが完全に分かれる。

例えば、「いろんな男とすぐにセックスする女なんてチャラくて何がいいのか」と思う層には、天海あかりはただのメンヘラビッチにしか映らず、全然いい女に見えないだろう。そうなった瞬間、本作は成立しない。

私なんかは、鑑賞前は「狂わせるガールは思わせぶりな態度をとりつつセックスはさせてくれない女」と思っていたのだが、実際は作中では定期的にセックスできているから、コーロキもあかりが彼女であることに拘らなくても楽しくて良いんじゃないかと思ってしまい、コーロキの独占欲に共感できなかった。

 

しかし、コーロキが一晩中連続してLINEを送るという、DVっぽい怖いシーンでは、「あー、気持ちは分かる」となったので、LINEと電話が止められないコーロキを見て恥ずかしくなった。自分の人間の小ささを改めて客観視させられて、いい意味で辛いシーンであった。

 

このように、本作は、「観客の過去の恋愛経験と照らし合わせて共感できるか否か」の分かれ道がたくさん用意されているので、正解ルートを辿れなかった人には苦しいかもしれない。

 

 

 

さて、映画全体から漂うギョーカイ的なオシャレな雰囲気は、『モテキ』から続く大根仁監督の得意な演出であり、納得の出来だった。あんなに華やかな生活があるなら、仕事もさぞ楽しいのであろうと、一般人として羨ましくなった。

 

言葉遣いで気になったのは、若い女性向けのアパレルの社長(天海祐希)は、例えおばさんであっても「ゲロうま」なんて絶対に言わないし、一方でリリー・フランキー演じる倖田シュウのキャラクターも現実感がない。

勿論、映画的なキャラ作りとして過剰に演出しているのだろうが、全体的にうっすらとスベっているので、観ていてひいてしまった。

 

 

また、タイトルに歌手名があるからには本作で最もキーとなる「音楽との融合」だが、残念ながら成立していたとは思えない。

例えば、コーロキとあかりがデートを重ねて場面が何度も変わるシーンでは、シーン毎に音楽がぶつ切りにされて、居心地が悪い。あの編集は音楽に愛がない。「ヒット曲のサビだけサンプリングする」のは、演出が安っぽくなるので避けるべきだ。むしろ、シーンは変えても、音楽は1曲だけで良かったのではないだろうか。

 

 

また、脚本自体も完成度が低い。

例えば、コーロキがライターと一緒に猫を探すシーン。そもそも、「猫を一緒に探す」みたいなシーンは既視感があるし、その後の「猫に顔を引っ掻かれる」のは、藤子・F・不二雄の漫画で使われているレベルで、表現として古すぎる。コーロキの追い込まれている感を表現するにしても、他に手段はあっただろう。

 

また、編集長(松尾スズキ)が黒幕であるのはバレバレなので、やたらと引っ張るのは良くなかった。

 

さらに、ラストに三人の男が集合するシーンもついていけなかった。編集長が二人を集める理由が弱いし、思いのほか編集長が雑魚キャラだったので、クライマックスとしても成立していない。話のオチを強引に持って来た感じだ。

 

 

とまあ、否定的な感想ばかりだが、全体的には細かいことは気にせず楽しめる作品であった。そして本作最大の推しポイントは「水原希子のセクシーシーンがたくさんある」ことだ。それだけでこの映画には十分な価値があると私は思う。(ダメか。)

 

ダンケルク

【評価】★★★★☆

これがノーラン流実話映画なのか!

 

【批評】

戦争映画というよりは、脱出サスペンス映画である。

 

あのクリストファー・ノーランが戦争映画を撮るわけだから、「正義とは何か」「戦争とは何か」みたいな小難しい話をこねくり回してくるものだと予想していたら、実際はその真逆の構成だった。つまり、頭で考えず身体で感じる映画だった。

 

 

ダンケルクの戦いにおけるダイナモ作戦は、いわば逃げ戦であり、激しい攻防があるものではない。つまり、映画化には到底向かない題材である。そこで、ノーランは本作を「脱出サスペンス映画」にすることで、その問題を解決している。

 

要は、観客に脱出劇のハラハラを追体験させることを目的とし、「臨場感をいかに演出するか」に振り切っているのだ。

セリフを極力排除する、主人公役にはオーディションで見つけた新人俳優を使う、CGを使わない、IMAX撮影にこだわるなど、そのこだわりは多岐に渡る。

 

実際、107分という、ノーラン映画としては短い上映時間も、観客がハラハラドキドキに耐えられる時間としては妥当なところであろう。

 

 

3つのストーリーの時間軸をずらす、というより時間の圧縮率を変えるという演出は、これもまた臨場感を出すための工夫のひとつであり、ノーランらしい上手いテクニックだと思う。(お手軽版『インセプション』といった感じか。)

 

 

本作にはドラマ部分が少なく、その点が批判されているようだ。しかし、『ハクソー・リッジ』のような一人の英雄を描く作品なら必然なのだが、「とある兵士」の恐怖を観客に追体験させる目的においては、ドラマ部分は観客に一歩引いた客観視のチャンスを与えてしまうため、不必要といえるだろう。

 つまり、ドラマ部分の省略は、本構成からして必然の選択なのだ。

 

 

 

本作をサスペンス映画として完成させるもう一つの演出は、敵兵であるドイツ兵の描写が一切ないことである。

例えば、映画冒頭、主人公は街中からの突然の銃撃に逃げ惑うのだが、銃撃がどこから来ているのかはまったく分からない。つまり、どこに逃げればいいのかも分からない。これだけで、「見えざる敵」から逃げるというサスペンス映画のできあがりであり、観客は映画の中に一気に引き込まれるのだ。

 

さらに、見えざる敵への恐怖感を煽る「音の演出」も素晴らしい。上空を舞う敵機のエンジン音からの爆撃音、船の中で銃撃されるときの銃撃音が、明らかに通常よりも激しく演出されており、観客に絶望感を抱かさせている。

終盤のチクタク音も、明確なタイムリミットがない作戦ではあるが、無意識のうちにタイムリミットがあるかのようなハラハラを演出する、古典的ながらスタイリッシュな技術であった。

 

 

 

なお、多数の民間の船が同時にダンケルクに登場するなど、ラストシーンは少し出来過ぎなフィクションの色合いが強い。確かに、そこには若干のプロパガンダ的意味合いを含めているようだ。

一方で、英国兵が同盟であるフランス兵を後回しにして救出していた点など、外すべきでない不都合な真実も描かれている、そこのバランス感覚はさすがである。

 

 

そして、ラストシーンでは、活躍したスピットファイアパイロットが絶望的な状況に落ちて終わるというのも憎い。つまり、「この作戦が完全な成功ではない」ということを観客に感じさせて、もやもやさせているのだ。

 

インセプション』ラストで、現実か夢かを判定するコマの動きを、最後まで描き切らなかったように。

三度目の殺人

【評価】★★★★☆

相変わらず画でみせるのが上手い

 

【批評】

 私の中で、是枝裕和監督は「優等生監督」といった感じ。

映画賞参戦はプロモーション的な意味合いもあるが、それでも年間ペースで淡々といい映画を作る才能は凄い。どの作品も明確なハズレはなく、心に響く作品ばかり。年2ペースで評価ブレブレの作品を排出する三池崇史監督とは違います(褒め言葉)。

 

 

そして本作もとにかく「上手い」作品だった。

 

例えば、本作のメインである、面会室での三隅と重盛の会話シーン。三隅が供述するときは、ガラスの円状の凹凸部分を上手く顔と重ねさせて、三隅の供述に漂う怪しさを表現している。後半には真横からのショットを多用し、二人を隔てるものが何も無いかのように、つまり序盤は真実に興味がなかった重盛が、後半は三隅に直接ぶつかっていく様子が描かれる。

 

そしてラストシーンでは、ガラス越しに反射した重盛の顔が三隅にゆっくりと重なる。今まで対峙していた三隅と重盛が同じ方を向き、重なる。つまり、二人の理解が重なる瞬間である。

背景もない、目新しさもない面会室シーンだけで、ここまで個性を発揮できるのは凄い。

 

 

さて、本作を理解するには、「そもそも『三度目の殺人』とは何か?」という疑問に答えなければならない。

実はこの解釈は人によって分かれるところであり、しかもその解釈次第で本作全体の理解が異なるやっかいな仕組みになっている。

 

僭越ながら私の解釈では、「三度目の殺人」とは、「この事件に関係するすべての人が、『三隅』を殺した」と考えている。

 これは三隅の死刑という単純な話ではなく、「三隅という人間性」を皆が殺したのである。

 

ラストシーンで、重盛は三隅に「あなたはただの器」と呟く。これは、結局誰も真実には興味がなく、自分の願望や都合を三隅を通して正当化し、世間に押し付けていることを意味している。逆に言えば、三隅は自己の内面を写す鏡でもあるのだ。

 

本作では、たびたび十字架が登場する。勿論、十字架はキリスト教の象徴であり、イエス・キリスト磔刑を表す。

キリスト教では、イエス・キリストが磔にされた理由として、「人民の罪を被った」とする考えが存在する。つまり、本作では、三隅は磔にされたキリストであり、人々の身勝手な願望を背負って、死刑判決を受けるのである。

 

 

本作では、結局真実が明らかにされない。

そもそも、人の発言が真実かどうかなんて誰にも分からない。だから、真実にどう向き合おうとするべきか、を本作は問うている。

 

重盛は、序盤は真実に興味がない人間だった。タクシーの運転手の証言をとるときは、「この財布でしょ。この財布から臭ったんでしょ。」と誘導している。しかし、重盛の娘が嘘泣きをするシーンでは、重盛は我が娘でさえ信じられないことに動揺している。真実に向き合おうとしない普段の姿勢が、家族さえも遠ざけていることに気づくのだ。

終盤は、事件を通して真実に向き合おうとするのだが、前述の通り、実はただ自分の都合を押し付けていたことを気づかされる。そして観客は、重盛を通して同じ体験をすることになるのだ。これこそ、是枝監督の巧妙なテクニックである。

 

 

その他、上手いシーンはたくさんある。

例えば、咲江(広瀬すず)が母親に「余計なことって何?」と聞くシーンでは、顔の半分が暗闇で隠れている。これは咲江が心に闇を抱えていることをストレートに表現している。

また、三隅が右手で左頬を拭うシーンは、のちに咲江と重盛が同様の行動をするシーンと繋がる。これはやはり、咲江や重盛が、三隅に自らの都合を重ねていることを意味しているのではないだろうか。

 

 

挙げるとキリがないのだが、このように、ひとつひとつのシーンがとても丁寧に撮影されており、是枝監督の優等生っぷりを堪能できる作品となっている。

 

ぜひ映画館で観て、自身の真実を見つけてほしい。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

【評価】★★★★☆

上映終了後のザワザワがすべてを語る。

 

【批評】

男の子と女の子のラブストーリーもの、ぐらいのスタンスで見に行ったら、あまりにも違い過ぎてビックリした。完全に油断していた。

この映画は、文学だ。

 

そして、本作は人によって好き嫌いが分かれるであろう。正直、嫌いな人の気持ちもよく分かるので、その辺りも解説したい。

 

 

1.そもそも本作はどういう話なのか?

 

誰の人生にも分かれ道が存在する。それは必ずしも大きな決断を伴うものではなく、「プールのターンで失敗する」ような些細なことかもしれない。そんな分かれ道で選択されなかったもう一つの行き先を探る。これが本作だ。

 

しかし、実際はそんなワクワクするような話ではない。

なんせ主人公の典道はずっとボーッとしているのだ。質問されても常にどっちつかずな返事をするし、そもそも聞いているのか怪しいぐらい。そしてその結果、与えられたチャンスを何度も逃して、なずなを失う。典道の頼りなさにイライラした人もいるのではないだろうか。

 

実は、本作は少年と少女のラブストーリーではなく、典道の「もしもの」成長に主軸を置いた話である。頼りない典道が、自らの殻を破るまでを描いている。

 

 普通の映画のストーリーなら、主人公は数々の困難を努力で乗り越えることで成長するのだが、本作では典道は都合よくタイムループアイテムを使って困難を乗り越えるので、観客には典道が楽をしているように見える。

 

しかし、そこはもはやそれでいいのだ。なぜなら、そもそも最初のタイムループ以降は、非現実だからだ。

実際、最初は右回りだった発電風車が、最初のタイムループ以降は常に左回りになっている。(そしてそれはラストに典道が殻を破るときに戻る。)これは、現実世界と非現実世界の区別を示している。

 

非現実世界の中で、典道は何度も失敗し、その度に後悔する。そして最後には「もしも」の無意味さに気付くのだ。

 

なずなと灯台で花火を見る直前、「結局、打ち上げ花火は丸いと思う?平べったいと思う?」となずなに聞かれた典道は、「丸いに決まってるだろ!」と強めに言い返す。これは、「なずなと一緒にいれるこの世界が現実であってくれ!」と願っているのだ。

しかし実際は、平べったい以上に非現実的な花火を見ることになる。この世界が幻想であることを、強烈かつ美しく突きつけられるのだ。

 

 

2.「なずな」とはどういう存在なのか?

 

なずなは典道の彼女でもなんでもない。

 

繰り返すが、本作はラブストーリーではなく、典道の成長ストーリーだ。とすれば、なずなは典道の成長を導くべく現れた存在ではないだろうか。

実際、なずなは典道より身長が高いし、色気をまとっている。明らかに同世代よりも大人な存在である。

 

本作中、典道は無条件になずなにモテモテである。決断力のないフワフワした主人公がなぜなずなにモテるのかよく分からなかった人もいるだろう。

 

答えは、「そもそも典道の成長ストーリーなんだから、典道がモテるのは当たり前」である。

 

なずなが典道の成長を導く超越した存在であるならば、典道のもしもストーリーでは当然なずなは典道が好きなのだ。

例えば、祐介には祐介のもしもストーリーがどこかにあり、そちらでは祐介がなずなにモテモテなはずである。

 

直接のセリフはないが、酔っ払った花火師が「打ち上げ花火は横から見れば平べったい」と言ったという場面がある。これは花火師がデタラメを言ったのではない。おそらく彼の中のどこかのもしもストーリーで、花火は平べったかったのだ。

 

 

3.光る細かい演出

 

 そもそも、原作の岩井俊二は、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、「現実か幻想か分からない」演出が得意だ。そう思うと、本作のストーリーはまさに岩井俊二の原点だ。その岩井俊二の温度感を、本作は見事に引き継いでいる。

 

初めに上手いと思った演出は、プールサイドのなずなにとまったトンボの複眼に写るいくつにも分かれた景色だ。これはまさに「この先には何通りもの世界が存在する」ことを表している。
その後祐介がプールサイドに入ってくる瞬間には、少し時間がワープする演出がされていて、非現実感を観客に刷り込んでいる。

 

50m水泳対決の後、なずなは祐介か典道の顔にホースで水をかける。ここで、観客は水をかけられる側の視点になる。水をかけられた方は、一瞬視界と音が失われる。つまり、観客にとってその前後が不連続になる。「さっきまでの世界」と「今後の世界」が繋がっていない可能性を、観客は無意識に感じ取ることになる。

 

途中、電車に乗る場面では、急にスケッチ調の絵柄に変化する。これは、これからより非現実的な世界に突入することを示している。また、電車は発車後すぐにトンネルに入る。これはもう『千と千尋の神隠し』でおなじみであるが、トンネルは非現実の入り口である。

 

現実世界のときは、学校の螺旋階段は左回りが登りでカメラが右に動く。しかし非現実世界ではカメラは左に動く。さらに、なずなと灯台に登るときは、螺旋階段は右回りでカメラが左に動く。このあたりの区別もうまい緻密な表現だ。

 

電車から眺めるなずなの家の車は、途中で変わっている。最初は赤い庶民的な車だったが、親からの逃避に成功したときは黒い高級めの車に変わっている。 

この理由は正直よくわからないが、なずなの「田舎(=現実)を抜け出して東京(=幻想)に行きたい」という脱出願望の表れかもしれない。

 

このように、本作は細部に計算された演出があり、考察しがいのある映画である。

 

 

4.ラストシーン、典道はどこに?

 

ラストシーン、教室で点呼されてもそこに典道はいない。この解釈もまた議論を呼ぶところであろう。

 

私はここで典道を登場させなかった演出はいいと思う。やはり典道は教室にいてはいけない。なぜなら典道は成長したからだ。人より先に大人になり教室からいなくなったなずなのように、典道もまた教室から脱出したのだ。

 

 

 

終盤、割れたガラスの破片に写るいくつもの「もしも」の場面。さて、あれは典道の願望なのか、なずなの願望なのか。

それとも、あり得る未来なのか。

 

見る人によって解釈がまったく異なる、面白い映画である。

メアリと魔女の花

【評価】★★☆☆☆

宮崎駿の100番煎じ

 

【批評】

(批判します。本作が好きな方は読まないでください。)

 

期待していただけに、非常にがっかりさせられた。本作が駄目な理由は以下の3点である。

①既存表現の使い回し

②魔法世界の描写があまい

③ハラハラドキドキしない

 

以下、詳しく説明する。

 

 

①既存表現の使い回し

 

「見たことがある!」というシーンの連発でとても退屈だった。

 

過去のジブリ作品へのオマージュというのも分からなくもない。しかし、本作は米林監督がスタジオジブリから独立して最初の作品であり、脱ジブリ、脱宮崎駿が試される作品だったはずだ。

「ポスト宮崎駿論」が嫌いな人の気持ちはわかるが、むしろ米林監督自身が強烈にポスト宮崎駿を意識していると思われる。「比べて批評するな」って言われても、向こうが「比べて批評して」って言っているレベルだ。

 

勿論、「魔女+黒猫」が『魔女の宅急便』だ、といった当たり前の部分を否定しているのではない。絵柄や世界観が宮崎駿似であることは予告編で十分承知している。

そうではなく、いろんな展開であったり、キャラクターの描き方だったりが、ジブリ映画そのものなのだ。いや、さらにいえばジブリの影響を受けた日本アニメのそれをそのまま踏襲している。二番煎じどころではない。

 

例えば、

・頬杖をつきながら窓の外を退屈そうに眺めている女の子(退屈な日常→非日常への移行の布石)

・なんだか意地悪な近所の少年(どうせ仲良しになるんでしょ)

・かご(葉っぱ)を被って、慌てるドジっ子(ベタ過ぎて、見ていて恥ずかしいレベル)

・男の子にからかわれて「いーー、だ!」

(同上)

など、序盤だけで、あなたもどこかで見たことがあるシーンの連続である。

 

その後の、サンドイッチを猫にあげるシーンも、「食べ物を動物に分け与えることで主人公の清い心を表す」なんて宮崎駿の鉄板中の鉄板である。

 

私はこの時点で、「あぁ、この映画は作り手が見て来た過去の作品に足を引っ張られている」と感じてしまった。

 何一つ新しい挑戦がないのだ。すでに完成して使い古されている記号化された表現を、恥ずかしげもなく使ってしまっている。それでいいの?米林監督!

 

また、「手に負えない力」やら「想定内」やら、ラストの実験失敗シーンは間違いなく福島第1原発事故の批判である。しかし、震災から6年たった今、原発批判を組み込んだ映画は世の中に溢れている。今原発批判を入れるならば、より作家的で高度な表現が求められている。(『シン・ゴジラ』は実に上手くエンタメに昇華させていた。)

しかし、本作はただモンスターを巨大化させただけだ。あれが、魔法学校を襲ったり、一般世界に入り込んだりするわけでもなく、ただ巨大化させただけ。だからそれ見たことあるから!

こんな単純なありきたりラストシーンに原発批判を組み込むなんて、表現として稚拙すぎる。

 

このように、本作は、導入だけでなく結末まで、使い古された表現に埋め尽くされているのだ。

 

 

②魔法世界の描写があまい

 

メアリが魔法学校に迷い込んでからのシーンも残念ながら盛り上がらない。これはもう原因ははっきりしていて、「魔法の世界の描写が弱すぎる」からだ。

 

異世界に迷い込む系ストーリーは、アニメだけでなく、ファンタジー物語の定番であるが、勝負は「どれだけ異世界の存在に説得力を持たせられるか」である。そのために異世界のディティールをちゃんと描かないといけない。

 

異世界に実在感を持たせる方法は、例えばその世界のキャラクターの衣食住を描くことだ。『ハリーポッター』『千と千尋の神隠し』『バケモノの子』…あげるとキリがないが、異世界の説得力がある作品はその世界の衣食住がちゃんと描かれている。

 

一方本作は、登場人物が何を食べて、何処に住んでいるのか(校長と魔女の部屋を覗いて)よくわからない。結果、キャラクターに説得力がない。

 

そしてそもそも、キャラクターが少なすぎる。魔法世界の主要キャラクターは、校長とドクター、箒番人、赤毛の魔女であるが、その他大勢がまったく描けていない。上級クラスの生徒全員に仮面かぶらせるのは、一人一人キャラクターを描くことをサボっているだけだ。また、悪者を手助けするのも全員ロボットで、個性がない。こんなにキャラクターが少ないと、世界に説得力が出るわけがない。

本作は世界観の演出をサボり過ぎている。

 

また、大学案内のシーンは観客を世界に引き込むための大切なシーンであるが、そのシーンも面白みに欠ける。見ていてワクワクしないのだ。

 

そしてここに私の嫌いなシーンがある。

(正確には覚えていないが)ドクターに「AパターンかBパターンかどちらだと思う?」と聞かれてメアリが「Bかなぁ、、」と答えたら、「そいうことか!メアリ君、君は天才だ!」となるシーン。

 

いや、何かの研究をしていて、可能性が2パターンにまで絞り込めていたら、言われなくても普通もう気付くよ。「適当に言った意見が偶然評価される」というシーンを描きたかったのだろうが、脚本があまりにも馬鹿すぎて成立していない。ここは本当にイライラした。

 

上級生の前で「君も姿を消す魔法をやってみなさい」って、なんで?いくら素質があるからって、見学に来てるだけの生徒に魔法をやらせる意味がわからない。

 

結局、このシーンは魔法学校と夜間飛行の力を説明するためだけの時間であり、観客を世界に引き込むことに失敗している。これでは、これから起こる出来事にも共感できない。

 

 

③ハラハラドキドキしない

 

敵が弱過ぎませんか。

 

例えば、校長がよくトビウオみたいなやつを出して襲ってくる。追いつかれてどうなるかと思えば、生身に対してはまさかの甘噛みの連続。確かに箒を食べられるのはやっかいなのだが、それもちょーーーっとずつ食べるので時間がかかる。正直あの間に全然振り切れると思う。

 

校長にはよく追いかけられるのだが、基本校長はツメが甘い。湯婆婆や荒地の魔女のような存在感もない。

ラスボスも、ただ巨大化するだけであまり脅威を感じない。攻撃といった攻撃をしてこないし。

ドクターは敵というには可愛すぎる。

 

結局、観客をハラハラさせてくれる敵がいないのだ。終始生ぬるい温度感で物語が進行していく。私は上映中ハラハラドキドキすることは一度もなかった。

 

 そもそも、本作は少女の成長ストーリーとして機能していない。結果、観客がメアリに感情移入することはない。

 

 

 

以上のように、本作は残念ながら駄目なポイントが目立つ作品となってしまった。正直、「子供向け」である。

 

しかし、アニメの本質である絵は最高に美しく、躍動感もある。これを大スクリーンで見ることは、十分に価値があると思う。

 

そして、米林監督は、(本作が共同脚本であることは承知しているが、)今後は監督に専念し、脚本は別の人に100%任せるべきではないだろうか。

 

いずれにせよ、次回作に期待している。

美しい星

【評価】★★★★☆

パワーワード満載映画。

 

【批評】

吉田大八監督は、この世界にまたひとつ「みんなでワイワイ言いたくなる映画」を作り出してくれた。いち映画ファンとしては、それだけで感謝したい。

本作は、観る人それぞれによって思うところがある作品だと思う。以下、私が注目した点を挙げていきたい。

 

 

◆効果的な食事シーン

 

福田里香さんのフード理論にもあるように、「映画における食事シーンには全て意味がある」と考える人も多いが、本作ではかなり効果的に食事シーンが使われている。

 

冒頭の食事シーンの不穏な空気や、ケーキのサプライズ時に本人がいない間の悪さは、家族のバラバラ感を一瞬で説明している。

また、亀梨和也演じる一雄は、遅れて来たと思うとすぐに妹の皿の肉を躊躇なく食べる。これは、「永い地球の歴史の中で、突然遅れて現れた人類が、地球の資源を乱暴に使用し、環境を破壊する身勝手な様」を表現している。あのとき観客が感じた「イラッ」とした感情は、作中で水星人が地球人に感じている嫌悪感と同じである。

実にうまい演出だ。

 

橋本愛演じる暁子は、ストリートミュージシャンの竹宮を追いかけ、金沢で再会する。しかし、スクリーンはその後、不自然に二人が静かな旅館で向かい合って食事をするシーンに跳ぶ。この間何が起こったのかの説明がないため、観客は必ず違和感を抱くだろう。

クライマックス直前になって、暁子がレイプされていたことが明かされるのだが、そんな答え合わせなんてなくても、暁子がレイプされていたことは食事シーンを見ればわかるようになっている。

そもそも、男女が向かい合って食事をするシーンは、セックスを意味することが多い。さらに、マイペースにどんどん食事を進める竹宮に対し、暁子はまったく食事が進んでいない。ここでは、食欲=性欲であり、竹宮の一方的な性欲が、暁子を攻撃していることを意味する。

観客があのシーンで抱いた「嫌な感じ」は、吉田大八監督の狙い通りだ。

さらに監督が上手いのは、「金星人かも」という疑惑を効果的に組み込んでいることだ。そのせいで、観客は最後まで「本当のところは処女受胎かも?」という希望が消え切らない。あえて「もやっ」とした感情を消し切らない、憎い演出である。

 

佐々木蔵之介演じる謎の男(水星人)は、異常に丁寧に食事をする。汚い定食屋において、彼の良すぎる行儀は浮いている。ではなぜ、彼の行儀はそこまで丁寧なのか。

それは、水星人としての「自然を大事にする」信念の表れである。「食事をする」ということは「自然を頂く」という行為でもあり、食事中の行儀は、自然に対する尊敬の念である。反対に、背景に映る人間たちの行儀の悪さは、環境破壊を繰り返す人類そのものなのだ。

 

このように、本作における食事シーンはとにかく気を遣って撮られている。そこに注目するだけでとても面白い映画だ。

 

 

◆ラストシーンの意味

 

 リリー・フランキー演じる大杉重一郎が円盤に乗って地球を見下ろすラストシーン。このシーンをどう解釈するかは人それぞれであろう。

 

シンプルに考えれば、「火星人としての重一郎の魂が、任務を完了して火星に還った」ということであろう。地球人としての重一郎はガンにおかされ寿命だが、火星人の魂は生かせることに気付いた家族が、重一郎の魂を救ったのだ。

 

ただ、ここはやはり地球人としての重一郎の死も同時に表していると思う。根拠は、「忘れものですか?」と、繰り返し問いかけられながら、地球を眺める重一郎の表情だ。

この表情は、監督が「淡々と、子供がぼーっとしているみたいに」と指示している。つまり、完全に100%火星人としての表情である。しかし、であるならば、そもそもなぜ地球を見ようと思ったのか、残った(元)家族をなぜ探したのか、に説明が必要だ。そしてそれは、円盤の中の重一郎に、地球人としての魂が残っているからに違いない。つまり、地球人の重一郎が地球を離れる=重一郎の死となるわけだ。

 

さらに、夜の山の道中、円盤を案内する使いとして牛が現れる。いうまでもなく、牛はヒンドゥー教における聖なる生き物であり、輪廻転生の象徴とされる。つまり、地球人としての重一郎はここで死ぬが、いずれは生まれ変わって帰ってくるという、ハッピーエンドを描いているのだ。

また同時に、「地球人の生まれ変わり」、つまり「地球人が反省し、やり直すこと」をも示している。

 

 

◆謎の男(水星人)のボタンは何だったのか?

 

安直な可能性としては、①水星人が考える地球再生プロジェクトの始まり。②重一郎の死の始まり。が考えられるが、それではスイッチの中身が空だったことに説明が付かない。

そこで私が考えるのは、「もともとは地球人リセットボタンだったが、重一郎の願いが太陽系惑星連合に届き、重一郎の身体の死と引き換えに無効化された」というものだ。

この考えであれば、スイッチの中身が空だったことと重一郎が血を吐いて倒れたことが結びつく。

さらに、対立していた水星人は、血を吐いて倒れた重一郎を抱き上げる。これは、自らの身体を犠牲にしてでも地球人を守った火星人への礼儀だと考えられるのではないだろうか。

 

 

◆なぜ円盤は福島に来たのか

 

原作では、人類が直面する危機は地球温暖化ではなく、核戦争である。となれば、現代の時代設定で、3.11を素通りするワケにはいかない。

しかし、監督は福島第1原発事故を主題には置かなかった。これは、原発に紐付くそれぞれの政治的な立ち位置が、映画にとってノイズとなることを懸念したようだ。

ただし、完全にスルーするのではなく、円盤が登場するそのシーンに福島を選んだ。人類と自然の不均衡な関係性の象徴である立入禁止区域において、人類が歩むべき解があるのだと、監督は示している。

 

 

パワーワードの数々

 

これまで真面目に語って来たが、そもそもこの映画はかなり笑えるということも、魅力的な要素のひとつだ。何より、「異星人と地球人が家族」というおかしな設定のお陰で、溢れ出るパワーワードの数々が面白い。

「金星人でもちゃんとしなきゃダメよ」とか、面白くて頭に残るワードがたくさん登場する。これだけ考えされられる映画が、同時に笑えるというのは、エンターテイメントとしての完成形といえるだろう。

 

 

本作には、他にもまだまだ論点はあり、すぐには語り尽くせない。本当に恐ろしい映画だ。

ここまでの批評で語り切れていない部分として、例えば、

・「美しい水」とは?

・劇中歌「金星」の歌詞

・一雄(亀梨和也)の投球フォーム

・「本当の美」とは?

・一雄はなぜ「メッセンジャー」なのか

・重一郎、一雄、謎の男(水星人)の論争

など、まだまだある。

 

クライマックス直前の山場である論争シーンで、謎の男(水星人)は「地球人は自然を美しいという。しかしその自然に自分たちは入っていない。」という矛盾を突き付ける。

この矛盾には、重一郎が、車で福島に連れて行かれる中、街中のネオンを見て呟いた一言で答えている。

「やっぱ、綺麗だな」と。

そう、人間たちもやはり美しいのではないか。「美しい星」には、人間が入っているのではないか。そんな監督のメッセージを私は感じ取った。

 

今後、より多くの人が見て、より多くの角度で論じられることが楽しみでならない。