美しい星

【評価】★★★★☆

パワーワード満載映画。

 

【批評】

吉田大八監督は、この世界にまたひとつ「みんなでワイワイ言いたくなる映画」を作り出してくれた。いち映画ファンとしては、それだけで感謝したい。

本作は、観る人それぞれによって思うところがある作品だと思う。以下、私が注目した点を挙げていきたい。

 

 

◆効果的な食事シーン

 

福田里香さんのフード理論にもあるように、「映画における食事シーンには全て意味がある」と考える人も多いが、本作ではかなり効果的に食事シーンが使われている。

 

冒頭の食事シーンの不穏な空気や、ケーキのサプライズ時に本人がいない間の悪さは、家族のバラバラ感を一瞬で説明している。

また、亀梨和也演じる一雄は、遅れて来たと思うとすぐに妹の皿の肉を躊躇なく食べる。これは、「永い地球の歴史の中で、突然遅れて現れた人類が、地球の資源を乱暴に使用し、環境を破壊する身勝手な様」を表現している。あのとき観客が感じた「イラッ」とした感情は、作中で水星人が地球人に感じている嫌悪感と同じである。

実にうまい演出だ。

 

橋本愛演じる暁子は、ストリートミュージシャンの竹宮を追いかけ、金沢で再会する。しかし、スクリーンはその後、不自然に二人が静かな旅館で向かい合って食事をするシーンに跳ぶ。この間何が起こったのかの説明がないため、観客は必ず違和感を抱くだろう。

クライマックス直前になって、暁子がレイプされていたことが明かされるのだが、そんな答え合わせなんてなくても、暁子がレイプされていたことは食事シーンを見ればわかるようになっている。

そもそも、男女が向かい合って食事をするシーンは、セックスを意味することが多い。さらに、マイペースにどんどん食事を進める竹宮に対し、暁子はまったく食事が進んでいない。ここでは、食欲=性欲であり、竹宮の一方的な性欲が、暁子を攻撃していることを意味する。

観客があのシーンで抱いた「嫌な感じ」は、吉田大八監督の狙い通りだ。

さらに監督が上手いのは、「金星人かも」という疑惑を効果的に組み込んでいることだ。そのせいで、観客は最後まで「本当のところは処女受胎かも?」という希望が消え切らない。あえて「もやっ」とした感情を消し切らない、憎い演出である。

 

佐々木蔵之介演じる謎の男(水星人)は、異常に丁寧に食事をする。汚い定食屋において、彼の良すぎる行儀は浮いている。ではなぜ、彼の行儀はそこまで丁寧なのか。

それは、水星人としての「自然を大事にする」信念の表れである。「食事をする」ということは「自然を頂く」という行為でもあり、食事中の行儀は、自然に対する尊敬の念である。反対に、背景に映る人間たちの行儀の悪さは、環境破壊を繰り返す人類そのものなのだ。

 

このように、本作における食事シーンはとにかく気を遣って撮られている。そこに注目するだけでとても面白い映画だ。

 

 

◆ラストシーンの意味

 

 リリー・フランキー演じる大杉重一郎が円盤に乗って地球を見下ろすラストシーン。このシーンをどう解釈するかは人それぞれであろう。

 

シンプルに考えれば、「火星人としての重一郎の魂が、任務を完了して火星に還った」ということであろう。地球人としての重一郎はガンにおかされ寿命だが、火星人の魂は生かせることに気付いた家族が、重一郎の魂を救ったのだ。

 

ただ、ここはやはり地球人としての重一郎の死も同時に表していると思う。根拠は、「忘れものですか?」と、繰り返し問いかけられながら、地球を眺める重一郎の表情だ。

この表情は、監督が「淡々と、子供がぼーっとしているみたいに」と指示している。つまり、完全に100%火星人としての表情である。しかし、であるならば、そもそもなぜ地球を見ようと思ったのか、残った(元)家族をなぜ探したのか、に説明が必要だ。そしてそれは、円盤の中の重一郎に、地球人としての魂が残っているからに違いない。つまり、地球人の重一郎が地球を離れる=重一郎の死となるわけだ。

 

さらに、夜の山の道中、円盤を案内する使いとして牛が現れる。いうまでもなく、牛はヒンドゥー教における聖なる生き物であり、輪廻転生の象徴とされる。つまり、地球人としての重一郎はここで死ぬが、いずれは生まれ変わって帰ってくるという、ハッピーエンドを描いているのだ。

また同時に、「地球人の生まれ変わり」、つまり「地球人が反省し、やり直すこと」をも示している。

 

 

◆謎の男(水星人)のボタンは何だったのか?

 

安直な可能性としては、①水星人が考える地球再生プロジェクトの始まり。②重一郎の死の始まり。が考えられるが、それではスイッチの中身が空だったことに説明が付かない。

そこで私が考えるのは、「もともとは地球人リセットボタンだったが、重一郎の願いが太陽系惑星連合に届き、重一郎の身体の死と引き換えに無効化された」というものだ。

この考えであれば、スイッチの中身が空だったことと重一郎が血を吐いて倒れたことが結びつく。

さらに、対立していた水星人は、血を吐いて倒れた重一郎を抱き上げる。これは、自らの身体を犠牲にしてでも地球人を守った火星人への礼儀だと考えられるのではないだろうか。

 

 

◆なぜ円盤は福島に来たのか

 

原作では、人類が直面する危機は地球温暖化ではなく、核戦争である。となれば、現代の時代設定で、3.11を素通りするワケにはいかない。

しかし、監督は福島第1原発事故を主題には置かなかった。これは、原発に紐付くそれぞれの政治的な立ち位置が、映画にとってノイズとなることを懸念したようだ。

ただし、完全にスルーするのではなく、円盤が登場するそのシーンに福島を選んだ。人類と自然の不均衡な関係性の象徴である立入禁止区域において、人類が歩むべき解があるのだと、監督は示している。

 

 

パワーワードの数々

 

これまで真面目に語って来たが、そもそもこの映画はかなり笑えるということも、魅力的な要素のひとつだ。何より、「異星人と地球人が家族」というおかしな設定のお陰で、溢れ出るパワーワードの数々が面白い。

「金星人でもちゃんとしなきゃダメよ」とか、面白くて頭に残るワードがたくさん登場する。これだけ考えされられる映画が、同時に笑えるというのは、エンターテイメントとしての完成形といえるだろう。

 

 

本作には、他にもまだまだ論点はあり、すぐには語り尽くせない。本当に恐ろしい映画だ。

ここまでの批評で語り切れていない部分として、例えば、

・「美しい水」とは?

・劇中歌「金星」の歌詞

・一雄(亀梨和也)の投球フォーム

・「本当の美」とは?

・一雄はなぜ「メッセンジャー」なのか

・重一郎、一雄、謎の男(水星人)の論争

など、まだまだある。

 

クライマックス直前の山場である論争シーンで、謎の男(水星人)は「地球人は自然を美しいという。しかしその自然に自分たちは入っていない。」という矛盾を突き付ける。

この矛盾には、重一郎が、車で福島に連れて行かれる中、街中のネオンを見て呟いた一言で答えている。

「やっぱ、綺麗だな」と。

そう、人間たちもやはり美しいのではないか。「美しい星」には、人間が入っているのではないか。そんな監督のメッセージを私は感じ取った。

 

今後、より多くの人が見て、より多くの角度で論じられることが楽しみでならない。

バーニングオーシャン

【評価】★★★★☆

邦タイトルはダサいが、登場人物はかっこいい!

 

【批評】

日本人への分かりやすさ重視なのだろうが、邦タイトル『バーニングオーシャン』はダサい。そしてCMもダサい。興行重視なのも分かるが、作品の重みを削ぐのはいかがなものか。まぁ、このあたりはバランスなのだろう。

 

さて、本作は実際にあったメキシコ湾の石油掘削施設「ディープウォーターホライゾン」での爆発事故を題材としている。

簡単にいえば、利益優先で十分な安全確認を怠ったために引き起こされた「人災」であり、原油流失による環境汚染を伴う大事故となったわけだが、そう聞いて日本人としては人ごととは思えないだろう。

 

題材が題材だけに、教訓めいた話もあるのだが、本作は説教に終始しているわけではなく、うまくエンタメ要素を含ませることで鑑賞中はアクション映画として無邪気に楽しむことができる。

監督のピーター・バーグは『ローン・サバイバー』でも実話ものを描いており、実話をエンタメとして世に送り出す能力が高いと思う。

 

出演者の中では、私はジミー役のカート・ラッセルに注目したい。とにかくかっこいい!従業員の安全を重視し、親会社に歯向かう様子は惚れること間違いなし。そして炎が似合う!『バックドラフト』の兄貴の再来で、興奮してしまった。

 

トーリー自体はすごく単純で、予告編でほぼ全部出しているようなものだが、それでも事故が起こるまでを描いた前半のいや〜な不吉な感じ、事故が起こってからの脱出劇を描いた後半の迫力満点のシーンと、全編通して飽きることなく見ることができる。

 

前半の不吉な感じについては、コーラ、車の故障、ネクタイの色、バードクラッシュ、なまずと、不穏な仕掛けがふんだんに散りばめられている。また、「石油掘削」という一般人にはマニアックな世界も、効果的にテンポよく説明されるので、苦労なく入ってくる。

さらに、途中に車の給油シーンを入れることで、「石油が我々の生活に不可欠なもの」であることを自然に印象付けており、うまい演出だ。

 

ちなみに冒頭のセックスシーンは、岩盤に穴を開けて泥水を取り出す作業を暗示していると私は思っている。(考え過ぎかもしれない。)

 

そんな前半が終われば、後半は上質なアクション映画となる。すぐそこに避難できる船があるため『タイタニック』ほど絶望的ではないものの、立ち上がる巨大な炎はモンスターのようでもある。

 

途中、被害を食い止めるためにパイプを切断するシーンがある。「パイプ切断」は原発でいえば廃炉を決断するようなもので、たとえ被害を抑えるためであっても「権限がないとできない」とは、どこの世界も同じだなと考えさせられた。

 

 

ゴールデンウィーク、家族と見るもよし、恋人と見るもよし、気軽なエンタメとして楽しんでほしい。そして、その後に必ず、あなたの心に何かが残るはずだ。

ブルーハーツが聴こえる

【評価】★★☆☆☆

監督の個性が出る6作品。総じて小粒。

 

【批評】

オムニバスなので、批評は個別にやります。

 

「ハンマー(48億のブルース)」

映画というより舞台だった。

セリフの言い回しであったり、ワンカット長回しであったり。いや、舞台というより東京03のコントを見ているようでもあったかな。それだけ、良くも悪くも角田の存在感は大きかった。

登場人物間のやり取りは楽しかったし、失恋への怒りはテーマ曲「ハンマー」との相性も良かった。ただ、舞台用の言い回しは映画で見るとえてして寒くなるので、全体的にゆるーくスベっている。

 

「人にやさしく」

確実に駄作。ブルーハーツブルーハーツファンに謝った方がいい。

そもそも、ドラマと「人にやさしく」がまったく合っていない。「人にやさしく」が流れ始めたときの「やってしまったな」感が凄い。市原隼人の低レベルCGラストシーンは笑うこともできない。「こっち見んなw」が止まらない。

そもそも、ストーリー自体つまらない。厨二病をこじらせた中学生が一晩で考えそうな陳腐な設定。人類vs機械の終末戦争を20分そこらで描こうとするほうが無理があるし、そもそも20分そこらで描ける話なんて絶対つまらない。星新一みたいなショートショートに振り切って5分ぐらいにした方がまだ良かったのではないか。

 

「ラブレター」

ありきたりなタイムワープ系かと思いきや、まさかのシザーバンズで、面白かった。コメディなんだけど、抑えるところは抑えている、という感じ。

主人公の斎藤工は、山本舞香演じる彩乃ちゃんの手をシザーバンズに書き換えるわけだが、そもそもなぜシザーバンズなのか。映画の中では「落ちてくる鉄骨に耐えるため」と説明しているが、手をハサミにしたぐらいで耐えられるはずがない。これはおそらく、学生時代の叶わぬ恋の痛みが、まさに刃物で心を切られる気分だったことを表しているのではないだろうか。

全体的にテンポもいいし、テーマ曲「ラブレター」とも合っていた。ただ、「映画でよくあるやつじゃないか」みたいなメタセリフはさめるのでやめて欲しい。

 

「少年の詩」

映画ファンとしては、清水崇はホラーに専念して欲しい。たまにやるホラー以外は、悪くはないが残念ながら平均点を超えられないイメージ。

本作も、テーマ曲「少年の詩」が流れるときの爽快感はよかったが、そもそものストーリーに新しさはない。大人が子供に殴られたぐらいで鼻血が出るのか怪しいが、何かのメタファーだったのかもしれない。でも軽くスベっているので考えるのをやめてしまった。

 

「ジョウネツノバラ」

浅い。恋人の死に耐えられない人間の話はこれまでも何度も描かれてきた。特別新しい解釈を提供しているわけでもない。水原希子のプロモーションビデオだった。死後硬直無視はどうかと思う。

 

1001のバイオリン

6作の中でもっとも観られる作品。やはり監督李相日の力が大きい。

原発事故以降、自主避難した者、しなかった者。東京に馴染むことで前に進もうとするもの、進めない者。各々がそれぞれの選択に自信を持つことができないなか、それでも生きている。そんな、原発に振り回されている人たちの葛藤を端的に描いている。

「目に見えないから怖いんじゃない。目を背けるから怖いんだ。」はまさにその通りであり、それは必ずしも被災者だけに向けられた言葉ではないはずだ。

エンドロールでは、無音の中、聴こえるのは被災地の波の音だけ。観客は自分がその場にいるような感覚になるだろう。そして、そこで生活している(いた)人たちの存在を感じることになる。これこそ、本作の狙いだろう。

 

 

全国公開の際に資金が立ちいかなくなり、クラウドファンディングで資金集めを行い、公開に至った本作。出演陣は豪華だが、個々のストーリーに目新しさは少ない。

そもそも、「ブルーハーツ」という縦軸がうまく機能しているように思えない。結局、なぜ「ブルーハーツ」なのか? 本作は答えを提示できていない。

 

それでも、劇場の音量でブルーハーツが聴ける機会も少ないので、ぜひ劇場で見てほしい。

哭声/コクソン

【評価】★★★★☆

ジャンル不明のエンタメ映画

 

【批評】

予告編を見ても、事前の紹介記事を読んでも、サスペンスなのかホラーなのかオカルトなのな、はたまた暴力グロ映画なのか、よく分からない。分かっているのは、韓国の映画祭で大絶賛、國村隼が大活躍、という触れ込みのみ。怖いもの見たさで見てみたら、やっぱりジャンルは不明だった。ただ、圧倒的なエンタメであることは間違いない。

 

「ホラーとコメディは紙一重」とよくいうが、まさにそれを実現している映画だった。怖いシーンなんだけど、映画館からは笑い声が起こっていたし、実際かなり笑える。

呻きながら骨が飛び出て大量出血で死ぬ、というショッキングなシーンのあとに、骨つき肉を炭火で焼いているシーン。ジョークにしてはあまりにもブラックだが、さっきまでの緊張シーンとの落差に思わず笑ってしまう。

本作の上映時間は156分と、なかなかの長編である。もし、怖いシーンやグロいシーンだけで埋め尽くされていれば、観客は疲れてしまい、ストーリーどころではなくなるだろう。しかし、本作前半は徐々に恐怖が侵食していく様をゆっくりと描いてはいるが、そういった笑えるコメディが散りばめられており、見事な緊張と緩和の連続で、156分の長編でも飽きずに見ることができる。

 

多くの人は、大音量、びっくり演出、グロ映像で観客の不快感を煽るホラーには飽きていることであろう。本作はそんな人にはもってこいの新感覚恐怖映画である。

 

 

さて、ナ・ホンジン監督はなぜ怪しいよそ者役に日本人を起用したのだろうか?

それは、(どこかのインタビューでキリストと重ねていたが、)ムラ社会に紛れ込んだ「同じように見えて異様なもの」に対して人間が本能的に感じる疑念を描きたかったのだろう。

しかし、それなら変な韓国人のおじさんでも良かったはずである。例えば、『怒り』では、渡辺謙は、小さな漁村に紛れ込んだ正体不明の男、松山ケンイチに疑念を抱いていた。

 

日本人起用の理由は、監督本人は否定しているが、やはり「韓国人が普段から抱えている日本人への疑念」に鋭く迫ったのだろう。いくら知識人がリベラルに構えていても、やはり他のアジア人、とくに日本人への疑念が心の奥に眠っているのであろう。だからこそ、多くの韓国人に、皮肉にも、受けているのではないか。

 

 

先ほどあげた『怒り』では、結末で真犯人が明確に提示される。その結果、罪のない人を疑っていた観客に対して、映画は「ね、人を信じることって難しいでしょ?」と投げかける。ある意味、教訓的なメッセージが強い映画であった。

 

一方本作は、真犯人、というか本当の原因が何なのかはそこまでハッキリとは明示されない。結局、観客は「あの人を疑った私は正解なのか、間違いなのか、よくわからないんだけど?」となる。

この辺り、人によっては「よく分からないあやふやなオチ」ということで、しっくりこないかもしれないが、これは明らかに監督が狙いとしているところである。

つまり、リアルな生活では、他人を100%信じるなんてことはありえないし、むしろ、100%信じていい人なんていないのだ。他人はあるときは自分の味方であるし、あるときは自分の敵になる。だからこそ、根拠のない疑念によって自分の行動を決め、はたまた誰かを傷つけることは、はたから見ればとても滑稽であり狂気でもあるのだ。

 

 

本作で印象的なシーンは、主人公が2度ほど選択を迫られる場面である。

1度目は、娘の痛ましい叫びを聞いて祈祷を止めさせるか悩むシーン。2度目は、怪しい女の忠告を聞いて止まるか娘を助けに家に戻るかを決断させられるラストシーン。

 

いずれの場面も、結局は「あいつの言うことは信じられるか?」という選択を突きつけられるのだ。この2つの場面では、観客も同時に「どっちが正解なんだ!?」と悩むことができて、感情移入爆発の興奮シーンである。

 

そして、この種の選択は、多分我々の日常でも迫られている。我々はその都度、一定の事実を参考にしつつも、感情と折り合いをつけて、自分の中でベストと思う選択をしている。果たして、これまでのその選択が正しかったのか、観客は考えさせられることになる。

 

 

映画のラスト、助祭が見た國村隼の容姿は悪魔そのものであった。さて、その容姿は現実なのか。それとも助祭が信じこんでしまっている幻覚なのか。

答えは、観客の心の中に芽生えた「疑念」が知っている。

湯を沸かすほどの熱い愛

【評価】★★★★☆

死を覚悟した者は強い。

 

【批評】

映画には思考実験的な意味合いがある。

 

映画は、特に邦画は、「現実的にはあり得ない」という理由で批判されがちである。

しかし、落ち着いて考えれば、普通は魔法なんて使えないし、宇宙戦争なんて起こらない。映画の中の出来事は非現実的であることが当たり前だ。

しかしなぜか、ヒューマンドラマに限っては、人はスクリーンの中の出来事が自分の生活の延長かのように捉えて、「現実にはこんな奴いないよ」という理由で批判しがちである。その批判は実は少し間違っていて(ここで「少し」とする理由は後述)、スクリーンの中は非現実的であることが当たり前なのだ。非現実を映すからこそ映画であり、現実が見たいならドキュメンタリーを見ればいいし、むしろ散歩をしていればいいだろう。

 

じゃあ映画は単純なファンタジーでいいのかというとそうではない。映画は、その中で実に非現実的な物語やキャラクターを描くことで、逆説的に「多くの人に刺さるリアリティ」を突きつけるのだ。その意味では、映画はあまりにも「現実的」なのだ。

 

付け加えれば、「こんなの非現実的だ」と批判されて共感を謝絶されるような映画は、それはそれで失敗しているので、そこを庇う訳ではない。

 

 

さて、本映画の主人公、お母ちゃんこと双葉は、実に非現実的な人間である。

多くの人は、彼女の熱すぎる暴走に共感できないことであろう。

 

例えば、イジメを受けて学校に行くのを嫌がる娘の安澄に対して、かなり強引に学校に行かせようとする。おそらく、この対処法は現実的には最悪だ。場合によっては自殺を誘発するだろう。絶対にしてはいけない。

 

映画では、安澄は「教室で下着姿になって抗議する」という無茶な行動をする。結果的に隠された制服は帰ってくるものの、実際あんなことをすれば笑われるし、その後日も笑いのネタにされること間違いない。イジメは絶対に解決しない。それどころかヒートアップするだろう。

 

母親の教育も、イジメ被害の解決法も、明白に間違っている、つまりこのシーンはとても「非現実的」だ。

 

そしてこれが非現実的であることは監督も織り込み済みのはずである。ともすれば、「こんなことはあり得ない」として観客を失いかねないリスキーなシーンである。ではなぜ、監督はこのシーンを作ったのか。それは、『湯を沸かすほどの熱い愛』を表現するために他ならない。

 

暴力的なほど強い双葉から安澄への愛。お母ちゃんからの試練に耐えれば良いことがあると信じる安澄から双葉への愛。そしてお互いの共通点を見つけることで愛が形になる。

イジメシーンはこれらを表現するうえではなくてはならない。そして、後半への効果的な伏線となっているところが、実に巧妙にできている。

 

 

世の中の映画に、いわゆる「難病もの」が多い理由は、単に容易に感動シーンを演出できるからだけではなく、死を覚悟した人間がとる行動にこそ、作り手が思う人間の本質を描くことができるからだ。

 

現在公開されている『聖の青春』は、実在し、若くして他界した天才棋士村山聖を描いた作品である。彼の生涯が魅力的である理由は、単純に天才であるだけでなく、死を前にした彼の将棋への想いが多くの人を魅了するからだ。彼にとって将棋での負けはリアルにイコール「死」である。そんな魂の生き様は、何かに挑戦する人、何かと闘う全ての人にとって、心揺さぶられるものに違いない。

 

そして本作も、フィクションであるものの、死を覚悟した双葉の行動は、多くの人の心に突き刺さるであろう。

 

例えば、旅行中に出会った青年の拓海は、何の目的地もなくぶらぶらと放浪していたが、双葉は彼に目的地を与え、熱く抱擁する。物語上、唐突とも思えるキャラクターの拓海は、生きる目的を見失った私たちを表している。そして、そんな私たちに対して、「なんでもいいから目標を立てて、そこに突き進めばいいんだよ」と優しく語りかける。双葉の行動だからこそ、観客の心に響くのだろう。

 

旅行終盤、突然のビンタから始まる衝撃の展開に私たちは目が離せなくなる。この展開もとてもテクニカルである。

そして、双葉のあまりにも深く熱い愛情に観客の身体がしびれる。振り返るといくつもの伏線が張られており、その優しい回収には関心すると同時に感動させられる。

 

 

また、映画終盤には、最大の感動シーンがやってくる。

 

「死にゆく病人への、病院の窓から見えるせめてもの贈り物」パターンは映画でもドラマでもアニメでも漫画でも使い古されているが、本映画のそのシーンは、今まで見たどんなシーンよりも感動的だった。

上手いと思ったのは、ちょっと笑えるシーンでもあることだ。夜に人間ピラミッドなんてあまりにもバカバカしい。しかしその笑いが、一気に涙に変わっていく不思議な体験をした。まさか今更このパターンで泣かされるとは思っていなかった。

 

ラストシーンも特徴的だ。銭湯で火葬するなんてやっぱり非現実的であるが、映画全編で描かれた双葉の愛を強烈に表現し、映画を締めくくる、効果的なシーンだったと思う。

 

タイトルバックからのエンドロールで、あなたの心に残るものこそ、監督が「非現実的」なストーリーであなたに与えた「リアリティ」である。

何者

【評価】★★★☆☆

必然的なメタ構造

 

【批評】

未だかつて、これほど読み進めるのが辛い小説はなかった。

 

就活時代のこそばゆい感じ、はたから見れば相当にイタい行動、嫉妬心。思い出したくもないあの頃を突きつけられる苦しさがそこにはあった。

そしてラストには、凄い勢いで指を突きつけられる。「お前だよお前。そうやって、時に背伸びし、時に他人を批評し、時に無邪気ぶってみせる、そんな就活生を、他人を見て笑ってんだろ。お前が一番醜いんだよ。」と。

そう、この小説の怖いところは、主人公の二宮拓人の視点で描かれたストーリーのラストに、拓人の醜い部分が指摘されるショックを超えて、読者自身の醜さを突きつけられるところにある。「拓人なんでまだ可愛いもんだよ。それよりもお前。お前だよ。」と。

 

主人公に感情移入させておいて最後に落としてくる小説は数あれど、それを超えて読者自身を直接的に刺激し、ここまで鋭くリアリティを突きつける小説はなかったであろう。小説『何者』は、そんなメタ構造の完成系のような作品だ。

 

そして、映画はそのメタ構造をうまく解釈仕直し、表現している。

 

映画は、その性質上、小説よりも主人公の感情を描くのが難しい。小説をそのまま映像化し、ひたすらに登場人物の独白で進行させるワケにはいかないからだ。(そういう映画もたくさんあるが。)言い換えれば、原作小説で読者が体験した衝撃を、映画でそのまま表現することは不可能だ。

 

そんなことは、監督の三浦大輔も十分に理解している。そこで彼が使った手法が、自身のフィールドでもある『演劇』である。

映画終盤、拓人の本性が暴かれるシーンで、これまでの出来事はすべて舞台演劇だったかのような劇中劇シーンになる。この演出はまさに、原作のメタ構造を映画なりの再解釈で表現している。

 

舞台の上という場所は、まさに観客に値踏みされ、批評される立ち位置である。監督自身、厳しい批評に晒されてきた経験もあるだろう。つまり、「これまでのシーンがすべて舞台の上の出来事」とする意図は、「これまでのシーンを見てきて、お前は他人事のように批評的目線で見てたんでしょ。拓人がツイートしてるようなことを感じてたんでしょ。」と、観客に突きつけるのだ。

 さらには、自身の分析ツイートを舞台観客に晒して拍手喝さいをもらう拓人を見て痛々しく感じさせることで、それまで批評的目線で斜に構えていた観客自身の痛々しさを、自覚させる構造になっている。

これは攻撃力の高い映画的演出と言っていいだろう。

 

劇中劇のメタ構造を入れる映画は多くあり、そのほとんどが松本人志の『R100』のように、失敗していると思っているが、本作に関しては必然の演出であり、成功している。

 

 

余談ではあるが、最後に本映画に残念な点があるとすれば、本作のメイン場面はなんといっても理香と拓人の口論(というより一方的な理香の説教シーン)であるため、原作からそこを大幅カットしたのは頂けないと思った。

 

 

朝井リョウの小説は、無責任に若者に「夢を追いかけるのは素敵だ」と言わないところがいい。現実を、静かに、そして鋭く突きつけるからこそ、「現実」に生きるしかない私たちへの最大のエールになっているのではないだろうか。

少女

【評価】★★★☆☆

都合いいと捉えるか、綺麗に収めたと捉えるか

 

【批評】

湊かなえ作品はほぼ全て映像化されている。

日本アカデミー賞最優秀作品賞の『告白』に始まり、『白雪姫殺人事件』などの映画化、『夜行観覧車』『Nのために』『花の鎖』などのドラマ化、その他映像作品など、本を出せば映像化がセットであり、一時期の東野圭吾伊坂幸太郎ラインに完全に乗っている。

そして、湊かなえ作品は、わずかに波はあるものの、一定したブランド通りのクオリティを維持している。こうなると、原作の良し悪しというより、「湊かなえ」という素材をどう調理するかという勝負になっている。無論、中島哲也の『告白』がひとつの壁となっているのは事実であり、比べられることは拒否できない。さて、本作はどうであろうか。

 

結論としては、とてもよくまとまっている。

湊かなえ特有のいくつもの細かい人物相関を、控えめな説明描写で表現しきっている。主役となる二人の少女も、モデル出身の二人が難しい役どころをこなしているという印象だ。本田翼の演技はやや過剰な気もしたが、それもまぁそこまで気になるレベルではない。

 

さて、本作のテーマは「ヨルの綱渡り」である。つまり、10代の若者(ここはやはり「少女」というほうが正しいだろうが)の狭い視野における絶望感が、実は勘違いであり、成長とともに光が差し、開かれた世界に気付くというものだ。

 

ただし、(以降は原作でも問題があるところだと思われるのだが、)そうなるとストーリーにおいて気になる点がある。

 

それは、さすがに展開が都合が良すぎるのではないかという点だ。

「あのときのあの人がこの人で、、」というのは、物語のストーリーとしては計算されていて面白いのだが、ここまで繋がりすぎていると、都合が良すぎる印象がある。

 

人物が繋がりすぎると、世界が一気に狭くなる。『少女』の世界は、全ての出来事の因果関係がわずかな登場人物の中だけで完結しており、もはや半径5メートル以内で行われている話でしかない。無論、必然的な理由があってそうであれば良いのだが、必ずしもそうである必要がないことも繋げてしまうので、やり過ぎた感がある。これは逆に言えば、お話としての現実味を放棄していると言っていい。

 

本作のテーマが上記に述べたような「10代の視野の狭さ」であり、「本当は世界は開いている」ことなのであれば、物語自体の狭い世界観はメッセージと真逆のオチになっていて、気持ちが悪い。

 

一方で、この意見には反論もあろう。

それはつまり、ラストでの由紀と敦子の疾走シーンに射す夕陽こそ、新たな世界の始まりであり、閉じたヨルからの脱出を意味する、というものだ。さらに、ヨルからの脱出に失敗した紫織は死を選択するしかなくなる。なるほど、二人の少女と一人の少女の対比を描いていると考えれば筋が通っていなくもない。

 

しかし、自分の小説をパクって、新人賞を受賞した教師が、報復を受けて自殺したのを、たまたま図書館で会った青年が目撃し、教師は自殺の瞬間に都合よく原稿を持っており、バラバラになった原稿用紙が都合が良く青年にとって回収可能であり、そこに都合良くラストシーンが入っている、というのはあまりにも作り過ぎではないだろうか。

 

また、他の気になる点としては、由紀が書いた「ヨルの綱渡り」のラストに「A子に捧げる」と書かれていることだ。「小説が親友に捧げたものであること」は感動的ではあるが、敦子のことを「A子」って呼んでいたのはLINE上でのイジメと同じ呼称であり、親友として使ってはいけないと思う。

 

ただ、全体的なダークなイメージや、派手過ぎない演出は監督の腕が立っている。

大好きシーンは、それまで片足を引きずっていた敦子が普通に歩き出すところだ。観客自身が少女に騙されることを体験できる本シーンでは、少女が醸し出す危うくも妖しい物語性が説得力をもって表現されている。

 

また、主役の二人は勿論のこと、脇を固める児嶋一哉稲垣吾郎佐藤玲なども安定しており、ご都合主義のストーリー展開でも映画を観られるものにしている。

 

つまり、現実感を期待するというよりは、全体的な雰囲気を味わうタイプの映画と思えば、十分に楽しめる。

 

確かに、湊かなえのご都合主義は今に始まったことではないのだから。